日本人と英語

本来あるべき言語教育

2018年8月22日 CATEGORY - 日本人と英語

今まで三回にわたって「TOEIC亡国論」からテーマをいただいて書いてきましたが、今回が四回目で最終回となります。

今回のテーマは「本来あるべき言語教育」です。

かなりTOEICの議論からは離れてしまったような気がしますが、私としてはこの問題が解決されれば、日本人のTOEICにまつわる問題など一遍に解決してしまう重要なテーマだと思いますので果敢に攻めたいと思います。

著者は、日本人が英語ができないのは、実は日本人が日本語をきちんと学べていないことに原因があるのではないかと言います。

逆に言えば、日本人が自らの母国語である日本語をきちんと学ぶ機会を得て、しっかりとした日本語を習得することができたのであれば、英語も今よりもずっとたやすく習得できるようになるということだと思います。

なぜならば、母国語をきちんと学ぶということは単なる一つの言語である日本語を学ぶということにとどまらず、「言語を学ぶ」ことに通じるからです。

この点について著者は次のように詳述しています。

「本来あるべき言語教育とは、英語という特定の言語に偏ることなく、言葉そのものに対する興味を様々な角度から養い、母国語と外国語をよく比較観察しながら『ことばの仕組とか働き』を理解するものであるべきだという。しかし、そもそも『比較観察』をする前提となるのは国語力である。国語力は思考と深く関連性があり、言語というものは思考した結果を表現するツールに過ぎない。だから英語を学ぶ以前に国語力に立脚した思考能力がなければ話にならないのだ。」

私は、この意見に100%賛成します。

特に、日本語と英語との間の言語的距離は極端に大きなものです。

そのような関係にある二つの言語間で日本語を母国語として、英語を外国語として学ぶということは、同じ言語的背景を持つオランダ語やドイツ語話者が、英語を学ぶ方法と一緒にとらえてよいわけがありません。

ですから、日本人が英語がいつまでたってもできるようにならないという現状に対して、オランダのように小学校から英語を学ばせるという政策をとることはあってはならないのです。

そんな時間があるのであれば、日本語の仕組みの理解と運用についての徹底したトレーニングを行って、将来英語を学習するときのために「比較観察」をする前提となる国語力を身に付けさせるべきです。

日本人は、自らの母国語である日本語の「仕組みの理解と運用」について学ぶことはほとんどありません。

小学校、中学校、高校の国語の時間を思い出してみてください。

あの時間何をやっていたのでしょうか。小説の切れ端のような文章、どこからか唐突に持ってきた説明文をみんなで輪読し、漢字の記憶をし、、、と言ったところでしょうか。

「現国は受験で差がつかないから現国は捨てて他の教科を勉強した方がいい」

などと当の現国の教師が言うことも少なくないと聞きます。

それではいけないのです。

「日本人ならば国語ができればすべての教科ができないわけがなくなる」

これが正解なのです。

私たちは、灯台で遠くを照らす前にまず足元を照らさなければなりません。

 

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