日本人と英語

グローバル化は歴史の必然か

2015年11月15日 CATEGORY - 日本人と英語

グローバル化       

 

 

 

 

 

以前に書籍紹介ブログにおいて「英語化は愚民化」という本を紹介しましたが、その本の中で、日本人の多くが信じて疑わない「グローバル化の必然性」に対して、非常に鋭い考察をされていたので、その部分について書こうと思います。

日本においては、「グローバル化は当たり前の話」という認識が一般的です。ですから、「英語化は愚民化」というような本書のタイトルが、?というように人目を引くわけです。

そして、多くの人がそのような認識を持つ前提には、「グローバル化は避けられない」「それは歴史の必然だからだ」という考えがあるように感じます。

しかし、本書ではそれが「歴史の必然」ではないと主張されています。それは、以下のような理由によります。

「中世ヨーロッパは、各国における土着語である英語やドイツ語、フランス語しか話せない一般庶民と、それらとともに『万国共通の普遍的な言葉』として認識されていたラテン語を話せる『グローバルエリート』に分かれた格差社会だった。そして、カトリック教会はラテン語を公用語としており、聖書もラテン語で書かれたものを使用していた。聖書だけでなく、文化・芸術・科学・医学などの知識は全てラテン語で書かれていたため、これらはすべてラテン語を話す一部の知識層のみの占有物だった。その後、カトリック教会は堕落していき、ルターやカルヴァンなどによる宗教改革が起こった。彼らの行った重要な活動は、聖書をラテン語から各国の土着語に翻訳をして、一般大衆もその知識に直接触れることができるようにしたことだ。これらが、宗教だけにとどまらず、あらゆる分野の翻訳に発展して、各国の土着語を抽象的な思考を可能にする『国語』へと進化させることとなった。そして、このことがヨーロッパ全体の活性化を促したことになる。(一部加筆修正)」

つまり、言語のローカルからグローバルという流れは、決して歴史の必然ではなく、むしろ歴史は言語のグローバルからローカルという流れを経て発展しているということいえるのです。

そのことは日本の歴史においても見られることです。明治維新後に福沢諭吉らが、日本語にない欧米の概念をそのまま英語を導入することによってではなく、自らの母国語である日本語に翻訳することによって、英語を直接公用語とせざるを得なかった東南アジアの国々などが達成することができなかった近代国家の樹立を達成できたのです。

この視点は、今のグローバル化一辺倒の日本において一度立ち止まって考えるに値するものではないかと思いました。  

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