日本人と英語

知恵とはなにか

2016年7月6日 CATEGORY - 日本人と英語

デジタルと教育

前回は、鳥飼玖美子先生の新刊「本物の英語力」の中から「シャドーイング」について取り上げました。

ただ、これについては、「訳す」という作業についての指摘はなく、「他人の言っていることをそのまま口から出す」ことに慣れさせるということにとどまっていました。

今回は、その「訳す」という根本的な課題についてヒントになる考え方が提示されていたのでご紹介します。

そもそも「訳す」という行為は、ある言語からある言語へその言いたいことを変換するという行為ですから、両方の言語の文法および語彙、すなわち全ての言語要素を熟知してはじめて可能となる総合的、相互関連的な行為です。

ですから、それを可能とするためには、言語における最高レベルの教育と学習が必要となるともいえるわけです。

そのことを前提として考えた時、本書における「教育とは何か」というテーマの議論が非常に印象的でした。それは、このテーマに関連して子供から投げかけられた次の言葉から発せられた課題です。

「何かを知りたければ、その度にグーグル検索すれば済むのに、なんで勉強して覚えないといけないの?」

まず、それに対する答えとしてあげられたのが、「人がものを考え、思考するには、基盤となる知識が欠かせないはずだ。知識を与えない教育はあり得ない。」というものでしたが、これでは当たり前すぎてあまり答えになっていないのではないかというのが私の正直な感想でした。

それに続いて出てきた意見というのが秀逸でしたのでその部分を以下に引用してみます。

「教育とは、まず自己内の対話から始まり、次に対人間の対話、そして認知的な発達につなげるために仲間と教えあう、協同、そして多様性を提供すること。そして、このような協同性や多様性の中から知識を生かす感性が生まれる。例えば、「英語力」があれば、あるほど検索(学習)する対象の情報量が倍増する。それはすなわち、英語という知識の一部をまずは基盤として身に付けたことによって、他人から自分の持っていない知識を引き出すことができるようになることを意味する。」

つまり、お互いに持っているその基盤を利用して議論(協同)することで、お互いがそれまで認知していなかった新たな知識にまで行きつく可能性だってあるということだと捉えました。

話しが少し大きくなってしまいましたが、別々の言語を母国語とする人間同士の会話の過程において、「訳す」ということは必須のことですが、この必須の行為が、実は根本的に協同性や多様性のところからスタートしているということが重要な点だと思います。

「知識」は、グーグルでも簡単に手に入れることができます。

つまり、それを得るために自分一人で足りるということです。しかし、その知識を使って何かを手に入れるという「知恵」は、他人との協同からしか発生しえないものだということです。

これが、もしかしたら学校という仕組みが作られた理由なのかもしれません。

実は、外国語の学習というものは、この「訳す」という行為がついてまわるがゆえに、知恵の力をつける過程そのものだということに本書を読むことで図らずも気づかされたのでした。

だから、英語を学ぶことは英語を学ぶだけではなく、日本語を学ぶことでもあります。

また、日本語を見直すこともまた、英語を学ぶことにもなります。

そして、我々は、母国語で思考するのであるから、自分自身の思考の範囲すなわち、自分の世界を広げることそのものだということです。

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