日本人と英語

理想的な中等英語教育

2018年3月23日 CATEGORY - 日本人と英語

前回に引き続き「英語教育の危機」からテーマをいただきますが、今回は現在の限られた資源を最高に有効活用することで可能となる中等英語教育について考えてみたいと思います。

本書で著者が特に力を入れて批判しているのは、2020年からの新学習指導要領です。

具体的には、今まで中学でやっていても達成できなかった高いレベルの目標を小学校英語の目標に定めていることと、「英語で英語を教える」という方針の学習指導要領への明記していることです。

しかも、「英語で英語を教える」という方針は、これまで高校英語に限っていたものを、中学英語も「英語で英語を教えることを基本とする。」としています。

これまで日本語で教えても「文法は難しすぎる」と言われてきたものを、英語で教えるということは、もはや文法教育を放棄して、おしゃべり中心にやり切ってしまうということを宣言したようなものです。

日本語と英語の言語的距離を考えれば、文法無視のおしゃべり教育がどのような結果をもたらすのかは、英語教育に携わるものであれば、容易に想像がつきます。

ただ、それを批判する側も、「文法だけでいい」と言っているだけだと、おしゃべり勢力の動きをいつまでも止めることができません。

本気で止めるのであれば、現在の限られた資源で、実質的に世の中が納得する結果を出せることを提案しなければ、結果的にはその勢力に力を与えてしまうだけです。

そこで私は考えました。

重要なのは、限られた資源を分散しないということです。

そのためにまずは「小学校英語」をやめます。

そして、それに割かなければならなかったはずの日本人英語教育要員と外国人英語教育要員を本来充てるべきところに充てます。

中学校では、英語の仕組みを徹底して理解させるために、日本人教師が日本語のみを活用して英語教育にあたります。具体的には、文法と語彙を徹底的に習得させることにこだわります。

また、それだけではなく、それらを使って文章を組み立てる訓練をしっかり行います。時間がかかってもよいから、自分の言いたいことを伝えられるしっかりとした文章を作れるようにします。すなわち、自分が生活する上で言いたいことは、時間さえあれば何でも伝えられるレベルにまで高めるのです。

つまり英作文です。

これであれば、従来の英語教員であっても、少しだけの意識改革で対応可能となるのではないでしょうか。

高校では、逆にすべての外国人要員と英語が堪能な日本人要員を当てます。そして、中学で学んだ「生活する上で言いたいこと」を時間をかけずに言える力に変えるのです。もはやこれは、彼らから何かを教わってインプットをするのとは違います。

すでに身に付けた「言いたいことは言える」力を、反射的に発することができるようにすることが「会話」なのだということに気付かせるのです。

そして、英語を大学入試という選別試験を課すような教科ではなくします。「話す」という技能の性質上、「体育」の授業のような評価方法であるべきだからです。

もう少し理想を言えば、文系と理系に分け、それぞれの分野において必要なスキルや語彙を追加でインプットし、大学教育につなげられるようにします。

もし大学入試にこだわるのであれば、この力に限定して測定すればよいでしょう。

どうでしょうか。

実は、これ、現在ランゲッジ・ヴィレッジのすべてのサービスラインアップそのままなのです。

もちろん、学校教育では、ランゲッジ・ヴィレッジと同じレベルまできめの細かいところまで対応することは難しいでしょう。

しかし、これこそが言語の習得の理論にのっとった無理のない、そして現在の資源で実現可能な方法なのです。

 

 

 

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