日本人と英語

学校外国語教育の「限界を超える」実践

2015年2月4日 CATEGORY - 日本人と英語

実践外国語

 

 

 

 

 

 

 

先日に引き続き、「「学ぶ」から「使う」外国語へ」に関連して、今回は学校教育における「使える外国語」の実践について考えてみたいと思います。

本書において著者は、「「正統派」と「会話派」がお互いを「ピーチクパーチクの英語」、「実際には使えない英語」と言って無益な言い争いを続けているような外国語教育業界」という表現をされています。

私のブログではもうしつこいくらい登場していますが、鳥飼先生や斎藤先生など私が素晴らしいと思う外国語教育学者はどちらかと言えば、本書で指摘される「正統派」に入るのだと思います。彼らの理論については全く批判の余地はなく、だからこそ私は彼らを評価するのですが、ただ彼らの著書を読んだあと、若干の「不完全燃焼さ」が感じられてしまうことも事実です。

その原因は、彼らが自らの主張の中で、学校教育における外国語教育の目的は「使える外国語」の実践ではなく、「使える外国語」の基礎を教えることのみにあり、学校教育がその限界を超える義務も必要はないとはっきり言いきってしまっていることです。

繰り返しますが、いわゆる「会話派」の理論と比べれば方向性としては圧倒的に「正統派」の理論が正しいことは間違いありません。

しかし、私の中では学校教育の枠内でも「使える外国語」の基礎の上に、多少なりともコミュニケーションの「機会」を与えることで「使える外国語」の実践を施すことは可能ではないか、またそれを実現するために知恵を絞るべきではないのかという思いがあります。

これが、私が「正統派」の先生方の主張に対して「不完全燃焼さ」を感じてしまう原因となっているのだと思います。

そのため、両者の議論は、本質論から離れて「「正統派」と「会話派」がお互いを「ピーチクパーチクの英語」、「実際には使えない英語」と言って無益な言い争い」に終始してしまうのだと思います。

逆に言えば、「正統派」の方々が、その限界を少しでも超える努力をすれば、この言い争いは一挙に終結するはずなのです。

著者である関口一郎氏は、慶応大学湘南藤沢キャンパスにおいて「正統派」でも「会話派」でもない、言ってみれば学校外国語教育の「限界を超える」実践に挑戦された方です。著者は以下のように言います。

「外国語教育に携わる教員にとっては、『外国語を使えるようになりたい』という大半の学生の希望にどうやって応えるのか、ということが最大にして緊急の課題である。先に、コミュニケーション中心の初級の外国語教育というのは、一つずつでよいから必要な文房具をワンセットそろえることだと述べた。そうなると、私たち教師の側でも、デパートのような大規模なものではなく、コンビニのようなコンパクトな店を受講者に提供してやる必要があるのではないか。コンビニがリュックサックや、ドラえもんのお腹のようなところにしまって運べるものなら、子供だろうと老人だろうと世界中どこに行っても困らない。」

ここで注目すべきは、「コミュニケーション中心の初級の外国語教育というのは、一つずつでよいから必要な文房具をワンセットそろえること」だというところです。つまり、「一つずつでよい」けれども、最低限必要な物は「ワンセット」きっちりそろえるということです。

この点で、「会話派」の「ピーチクパーチクの英語」とは確実に一線を画しています。

最低限必要な部品をきっちり覚えたうえで、それを基礎として「使える外国語」に結びつける仕組みづくり、これを「外国語学習環境設計」と著者はよび、それに必要なものとして以下の2つを挙げています。

一、外国語学習のための疑似体験環境の設計

二、学生自身が言語環境設計のデザイナーとなるため教員の役割

一、などは正に我々ランゲッジ・ヴィレッジが普通にやっていることなのですが、このことをおさえた学習環境の設計思想が学校教育の枠内で保たれた慶応大学湘南藤沢キャンパスのケースは非常に強いインパクトがあったと思います。

そして、実際に当キャンパスにおいてはそれがかなり成功していると聞きます。

ただ、それから15年以上が経過してもなお、その思想が日本の学校教育全体に浸透しているとはとても言えない状況は非常に残念と言わざるを得ないと思います。

 

 

 

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