日本人と英語

英語が下手になってよかった? その1

2015年12月13日 CATEGORY - 日本人と英語

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以前に書籍紹介ブログにおいて「英語の害毒」という本を紹介しましたが、その中で、著者はタイトルのように「英語が下手になる」ということが「喜ばしいこと」であるという認識もあるということを日本人は知っておくべきだという考えを披露されています。 今回と次回の二回にわたって、このことについて考えてみたいと思います。

日本においては、多くの人が「英語が上手」であることは絶対的な価値であると考えています。 しかし、植民地支配から脱したインドの友人と著者との間の会話において以下のようなやり取りがあったといいます。

「(インテリたちが昔に比べて英語が下手になったことを捉えて)インドもよくなったな。英語が下手になったからな。友人は吹き出しながら大きくうなずいた。」

当ブログでは「英語支配」の有利な点と危険な点を何度も取り上げて説明してきました。 まさに、上記のやり取りは、このことを表していると思います。植民地支配真っ只中のインドのインテリ層では、英語はまさに「会話言語」(生活をするための言語)であり、また同時に「学習言語」(抽象的な議論に耐えうる言語)でもあったわけです。

つまり、当時のインド人は、自らの文化を捨てなければ、インテリ層にはなれなかったということです。当時インドでは、英語を使うことで、インドの言語、文化を背景に生きるよりも、高い生活水準を維持することができました。これが、「英語支配」の有利な点です。 しかし、生活言語として英語を使用する当時のインテリ層は、インドの固有の文化を捨て去り、「第二級のイギリス人」になることを受け入れたのです。これが、「英語支配」の危険な点です。

このことから分かることは、先ほどの会話は、単純に「英語が下手になってよかった」ということを言いたいのではないということです。 それは、絶対的な「下手さ」ではなく、相対的なものです。では、何と比較して相対的なのか?それは、インド文化を背景にしたインドの言語と比較してです。 このことは、母国語を思考の基盤とし、英語を、その母国語による思考を経て創造した価値を英語圏に伝える「道具」として捉えられるレベルにあるということを意味します。 もっと言えば、英語のレベルを道具として活用できる程度のレベルに固定し、母国語のレベルを常に向上させ、思考の深さをどこまでも追求することによって、あくまでも相対的に「英語下手」になる努力をすべきだということなのだと理解すべきではないかと思いました。