日本人と英語

英語を話す必然性をつくる

2016年7月20日 CATEGORY - 日本人と英語

必然性

前回に引き続き、書籍紹介ブログにてご紹介した「もうこれで英語に挫折しない」という本の中からいただいたテーマについて書きます。

第二回目の今回は、英語を話す「必然性」を作ることの重要性についてです。

本書で著者は、日本人が英語をいつまでたっても話せるようにならずに挫折してしまうのは、「継続」ができないからだと以下のように指摘しています。

「英語のように、毎日触れ、毎日慣れることで体に浸み込んでいくタイプのスキルは、『時間ができたらやろう』という姿勢では、全く身につかない。もっと能動的、かつ継続的な努力が必要だ。しかもいわゆる『努力』とあまり感じさせない方法を考える必要がある。」

つまり、英語に限らず外国語というものは、頭が良いかどうかでその出来不出来が決まるのではなく、続けてやるかどうかで決まるということです。

ですが、人間の性質として、いわゆる『努力』だと感じてしまうと、続けるということ自体が能力を必要とすることになるので、普通の人が続けるためには、自然体でやる仕組み、すなわち「必然性」を作り出す必要があるという主張です。

書籍紹介の記事で、説明したフィリピン人が日本人とは比べ物にならない位少ない投資で英語を話せるようになってしまうのは、フィリピン人が日本人と比べて語学習得能力が高いからでも、努力を続ける能力が高いからでもなく、ただ、彼らにとって英語を使うということが「必然性」を伴うからだということです。

その必然性とは、英語ができなければ、高等教育が受けられない、高等教育がうけられなければ、高い給与水準を維持できない、だからそのような恩恵を受けたいフィリピン人にとっては、英語を学ぶ努力を続けることが「必然性」を伴うわけです。

しかも、一旦そのような社会の層に入ったならば、その層の中では、英語を使用するのが至って「必然性」を帯びるので、そこからはもはや、英語を話すということが『努力』とは感じられなくなってくるのです。

またまたここで言うは易し、行うは難しの法則にぶつかります。

なるほど、「必然性」は外国語学習にとって「本質」だということは分かりますが、日本の社会という特殊環境では、この「必然性」を作り出すことが極端に難しいのです。

幸せなことに、現在の日本は、フィリピンと違って、日本語で高等教育が受けられ、英語が話せなくても、高い給与水準を維持できているからです。ただ、これから先、それが維持できなくなってしまうのではないか?という危機感は感じているところですが、まだ、それは「必然性」というには程遠いという状況なのです。

ですから、日本において、この必然性を得るためには、それを「不自然」に作り出さなければならないというわけです。

実はその「不自然」に創り出された「必然性」を備えた環境がまさにランゲッジ・ヴィレッジの環境です。

ランゲッジ・ヴィレッジは、めちゃくちゃ人為的に管理をすることで、「英語を話し続けないとその中にとどまることすら許されない」環境を作り出しています。

必要ないから必然性がない。けれども、意識の高い人にとっては、必要なため、人為的な必然性を作り出す。

なんだか、禅問答のようですが、これもまたことの「本質」ではあります。

 

◆この記事をチェックした方はこれらの記事もチェックしています◆