日本人と英語

言葉を教えることは人を育てること

2018年3月25日 CATEGORY - 日本人と英語

前々回と前回に引き続き「英語教育の危機」からテーマをいただきますが、最終回の今回は「言葉の教育」にあたる人間の覚悟について考えてみたいと思います。

著者は本書で、日本の英語教育が改革に次ぐ改革をしても一向に成果が上がらない理由として、「『コミュニケーション能力』の内実について定義が曖昧なまま一般社会や教育行政、学校現場、学習指導要領で使われていること」と述べられています。

前々回の「文科省の本音」に書いたように、そもそも文科省の意図とは別の方向で現場に伝わってしまったという事実も、突き詰めればこの定義の問題が大きく影響していると思われます。

これは、言ってみれば日本人が「コミュニケーション」もっと言えば、「言葉」の大切さを軽視し続けた結果ではないかと思います。

そのことを著者は、本書のあとがきにおいて52年間一国語教師を貫いて日本の国語教育の向上に貢献し、「授業の神様」といわれ2005年に亡くなった大村はま氏の次の言葉を引用しながら伝えようとしています。

「ことばを育てることは、こころを育てることである。人を育てることである。教育そのものである。」

大村はま氏は、教え子たちには好かれながらも、高い理想と並はずれた熱意のあまり、学校現場で同僚たちの反感を買っていたそうです。それは、職業意識ゆえか同業者を見る目が厳しかったからだと彼女の人生をつづった書籍には書かれています。

コミュニケーション能力の定義をきちんととらえることは、言葉の意味合いをきちんと捉えることなのだということをこの言葉が教えてくれていると思います。

「言葉の教育とは人の教育に直結する、だからそのことを人生の仕事にするためには、そのことをまず自覚して覚悟を決めなければならない。」

「その覚悟ができない人は、決して言葉の教育に携わってはいけない。」

このように言葉の重要性について真剣に考えるならば、大村はま氏が、上辺を繕うような言葉を使う人に対しては徹底的に攻撃したと言う話もよく理解できるような気がします。

逆に、このような覚悟を持つことができない人が、言葉の本質からずれた政策を遂行し、現在の英語教育の危機をもたらしているのは確実です。

こんな今こそ、高い理想と並はずれた熱意のあまり、学校現場で同僚たちの反感を買った大村はま氏のような人間が必要なのかもしれません。

鳥飼先生もこの言葉を引用し、自分もそうであろうと自身を奮い立たせようとしているのだと思います。

私も立場は違えどその一人でありたいと改めて思いました。