日本人と英語

日本語を捨てたがる日本人

2015年11月18日 CATEGORY - 日本人と英語

日本人日本語を捨てたがる      

 

 

 

 

 

 

前回に引き続き「英語化は愚民化」が提示するトピックについてこのブログで取り上げていきたいと思います。第二回目の今回は、「日本人の日本語に対する感情」に対しての考察について書こうと思います。

前回の記事において、アジアで唯一、日本においてのみ近代化が達成できたのは、日本だけが「日本語」という母国語を大切にし、新しい概念の吸収を、直接外国語を導入するのではなく、翻訳という形で、自らの言語に取り入れることに成功したからだという話をしました。

しかしながら、昨今の日本では、それとは全く逆の動きが目立ちます。 「英語が重要」というスローガンが先走り過ぎて、場合によっては「日本語を捨てしまってもよい」というところまで飛躍して考えてしまう人も少なくないようにも見えます。

母国語で、ほとんどの学問ができる、すなわち深い思索ができるということの幸せをかみしめることなく、せっかく先人が苦労して作り上げた「国語」としての日本語をなぜ日本人は、このように軽視するのでしょうか。

逆説的ですが、私はこう思います。

それは、「学校教育において英語をツールとして使用できるレベルに到達させることができないから」です。

このことは、ランゲッジ・ヴィレッジを運営している私に言わせれば、そこまで難しいことではありません。もちろん、英語で日本語と同等の深い思索までできるようにするというレベルであれば、話は違ってきます。

しかし、あくまでも「ツールとして使用できるレベル」であれば、できないことはないのです。 それが実現できれば、そのレベルは、日本語で深く思考した結果生み出されるアウトプットを、英語を使ってグローバルに伝えたり、受け入れたりすることができるレベルで十分だということになります。

逆に、たったそれだけのレベルもいつまでたっても実現できないから、日本語を捨ててまでも、英語をどこまでも追いかけなければならないという強迫観念に駆られてしまうのだと思います。

パソコンでいえば、英語などは単なるアプリケーションにすぎず、思考する最も大事なCPUはあくまでも日本語であるということです。

この考えさえしっかりと日本人一人一人が迷うことなく持つことができれば、決して「日本語を捨てしまってもよい」などと飛躍して考える人はいなくなると思うのです。

ここに本書よりそのことが良く分かる一節を引用します。

「母語は人々を自然に思索へと導く。この母語の機能の重要性はいくら強調してもし過ぎることはない。」

このことを実現するためには、ネイティブ信仰を捨て、ぎこちなくても低速ギアでもいいので目的達成のために走りきる(歩ききるでもよい)英語力を国民が広く身に着けることを現在の学校教育に与えられた限られた時間の中で実現する方法を確立しなければなりません。

私は今までの経験でそれは十分可能だと考えています。

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