日本人と英語

英語下手は贅沢

2015年5月3日 CATEGORY - 日本人と英語

英語下手は贅沢

 

 

 

 

 

 

 

 

以前に書籍紹介ブログにて「英語と日本人」という書籍についてご紹介しました。

「日本人と英語」という論題の場合、その議論が非常に感情的で読んでいてバランスを欠いていると思わされるものが多いのですが、本書は、日本人の英語との付き合いの歴史について実際の事例を非常に多く用いながら解説をしており、非常に説得力のある内容となっている良書だと思います。

著者の考えも基本的には「国際化」のためには何をおいても英語力を養うべしという主張に対して明確に反対の立場です。その主張において、以下のような目の覚めるような例を挙げて説明されています。

「国際的な討論の場で、旧植民地出身の学者たちが非常に流暢な英語を話すのを聞くと日本人はうらやましいという感情を抱きがちだが、逆に彼らからすると、むしろ英語ができない方が贅沢であって、逆にうらやましいという感情を持つことがあるという。つまり、『英語のじょうずな旧植民地の学者たち』からみれば、『英語が下手でーということは植民地とならずに、しかもかなり高級な議論ができるという事実』こそ驚くべきことであり、何よりもうらやましいことだったのである。(一部加筆修正)」

旧植民地の人々がなぜ英語が上手なのかということについては、以前のブログ記事「フィリピンと英語、日本と英語」にて次のように述べました。

「フィリピンでは高等教育において使用されるのは基本的に英語なので、テキストはすべて英語。つまり、フィリピン語では、一般の生活に関することしか表現ができない。だから、中・高等教育に関しては英語でないとほとんど伝えることができない。ということでした。そして、日本では、大学教育の隅々まで日本語で行われていることを伝えると逆にびっくりされたのです。なるほど!と思いました。日本が「欧米に追いつけ、追い越せ」を実践する中でやってきたこと、それは英語をはじめとする外国で書かれたものを日本語に変え、自らの言葉で理解すること、またそこから独自に発展させ、場合によっては欧米にもないものを作り出してきたことなのだと。「日本人が英語ができないこと」このことは、いままで日本の『強さ』の源泉だったのだということです。」

まさに、『英語のじょうずな旧植民地の学者たち』は、日本人の学者が「英語なし」で「世界レベルの高級な議論」ができていることは、自国語である「日本語」がそのレベルに耐えうる言語であるということの証明であるということに対して、うらやましいと思っているということです。

ですから、日本人はまず、このことを自覚するべきではないでしょうか。そして、自分たちの言語状況が他の非英語圏の人々からみると「うらやましがられる」対象であるという前提で自分たちが英語とどのように付き合っていくのかということを考えるべきだと思います。

著者の主張がバランスが取れたものだと思うのは、このような前提で議論してはいても、国際社会における英語の重要性自体を完全に否定することはないからです。

グローバル化の進展で、この日本の『強さ』を維持するためには今までのように「だから日本人は英語を話さなくていいんだ」では済まなくなってきたという厳然たる現実を捉えたうえで、日本人がどのように英語と付き合っていくかを落ち着いて考えるべきだとおっしゃっているように思いました。

つまり、日本人は英語に対して、いつまでも増幅してしまう「あこがれ」という感情で接するのではなく、目的を達成するための道具としての「必要性」によって取り組むという姿勢を持てばそれでいいということを皆が普通に思えるようになればよいということです。

その英語が上手であったり、そうでなかったりは、その必要性の結果に過ぎないと達観することが最もバランスの取れた「英語観」だと思います。

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