
「グローバル市民性」という概念
2017年6月30日 CATEGORY - 日本人と英語
先日ご紹介した「「グローバル人材育成」の英語教育を問う」によって、「国際化」の概念と「グローバル化」の概念との違いについて気づかされましたので、今回はその部分について掘り下げて考えてみたいと思います。
まずおさらいとして、「国際化」とは、「国の枠組みを前提として複数の国家が相互に交流し、互いに経済的・文化的に影響を与え合うこと」、そして「グローバル化」とは、「国家の枠組みと国家間の壁を取り払い、政治、経済、文化など、様々な側面において地球規模で資本や情報のやり取りが行われること」です。
ですから、国連やユネスコといった国際機関としては、当然、前者の考え方に立脚することになります。
特に近年、これらの機関では、「自分の持てるものを生かして、地球社会に貢献できる人材を育てる」という文脈で、「グローバル市民性(Global Citizenship)」を提唱されています。
今回は、この「グローバル市民」という概念について考えてみたいと思います。
注意すべき点は、「グローバル」という言葉が使われていますが、これは後者の「グローバル化」のグローバルとは異なり、「多様性に満ちた地球社会」という意味でつかわれていますので、前者の「国際性」の意味に限りなく近いものであるということです。
日本で言われている「グローバル人材」とは、グローバルスタンダードである英語圏のルールを理解して世界で闘う人材を意味しますが、「グローバル市民」は闘うのではなく、地球社会に貢献する人材を指すようです。
人類の未来を持続可能なものとするために、異なった文化や言語が共存していくことを前提にしながら、自分なりの貢献を目指す人材です。
そして、この「グローバル市民」たるためには次の4つの条件が必要だそうです。
(1)自らの「アイデンティティ」をしっかり持っていること
(2)「異質性に寛容」であること
(3)言葉を通じて他者と関係構築できること
(4)「教養人」であり、かつ「専門性」を持っていくこと
これらを見て何か気が付きませんか?
そうです、アメリカのトランプ大統領の正反対が「グローバル市民」だということです。
一部、(1)だけは、「アメリカファースト」という強烈な「アイデンティティ」をしっかり持ってらっしゃいますが(笑)
アメリカの大統領選挙もイギリスのEU離脱の国民投票も、自らが主導して進めたグローバル化によって自国民の「余裕」がなくなってしまったために、皮肉にも「アメリカファースト」、「ブリテンファースト」の機運が高まり、それを抑えることができなくなってしまった結果です。
つまり、「グローバル市民」たるためには、「余裕」が必要だということでしょう。
そして、その「余裕」を作り出すことができるのは、教育しかないと思います。
にもかかわらず、日本の教育が後者の意味での「グローバル化」に圧倒的に傾いてしまっているという事実は非常に残念だと言わざるを得ません。