日本人と英語

人間にとっての「母語」とは何か

2019年1月13日 CATEGORY - 日本人と英語

書籍紹介ブログにてご紹介した「日本語が亡びるとき」より「マイナー言語の存在意義」について考えてきましたが、第四回目の今回は、その議論の根本である「母語」というテーマで書きたいと思います。

思えば、「日本人にとっての日本語は『思考の基礎』であって、英語は『ツール』に過ぎない」という信念も、日本語が「母語」であるからこそ成り立つものです。

であれば、何よりもまず「母語」と他の言語との間にある決定的な違いというものを明らかにする必要があります。

著者は、この点についても非常に納得感のある表現をされています。

「『母語』とは極めて特権的な言葉である。言葉はすべて後天的に学ぶものである。言葉はすべて基本的には自分にとって『外の言葉』なのである。だが、母親のおなかにいるときから学び始める『母語』だけは、学んでいったその過程が意識されない。それゆえ、言葉の恣意性―記号と意味の間に何ら必然性がないという、普段私たちが言葉を使う時には忘れている、と言うより、忘れざるを得ない、言語の恣意性が意識されないのである。例えば、日本人がフランス語を学ぶときは、『maman』という記号が『母親』を意味するのを意識的に学ばなければならず、その過程において、記号と意味の関係が恣意的であるのを意識せざるを得ない。ところが、『母さん』という言葉が『母親』を指すのを意識的に学ぶことはなく、『母さん』という記号と『母親』という意味の間には、あたかも必然性があるように思えるのである。」

う~ん、私はこれほどまでに「母語」の本質を抉り出すような見事な説明を見たことがありませんでした。

かつて私はこのブログで「やかんの恐怖」という記事を書きました。

これは、私が小さなころから感じていた次のような恐怖を告白したものです。

「『や・か・ん』という単調な音だけが冒頭写真の物体(やかん)を表現するという言語的な『お約束』だけで成り立っているわけで、その意味のない音の組み合わせの記憶に少しでも失敗したら、私は『やかん』を他人に対して即座に伝える術を失ってしまうリスクに対して常に『恐怖』を感じていたということです。」

まさにこの著者の指摘でそのことをより深く理解することになったような気がします。

つまり、日本語は私の母語ですから、そもそも「記号と意味の間に何ら必然性がない」という言語として当たり前のことを意識していないわけですが、ひょんなところから、あまりにも記号的にすぎる「やかん」という記号が、そのことを私に突如、意識させることで生じるのだということなんだと思います。

この恐怖は絶対に「外国語」では感じることはありません。

なぜなら、そもそも「記号と意味の間に何ら必然性がない」ことなど当たり前で、それに対峙する私の姿勢が初めから「意識」しまくりなわけですから。

それほどまでに、「母語」というものは、無意識的で、私たちの体の一部で、空気みたいなものだということです。

このことこそが、日本人にとっての日本語は『思考の基礎』であるということの源なのだと思います。