国際人になるとはどういうことか
2016年2月3日 CATEGORY - 日本人と英語
前回に引き続いて、「サムライと英語」という本からとったテーマについて書きたいと思います。
そのテーマは、ズバリ「国際人になるとはどういうことか」です。
明治維新の時代、とにかく日本は西洋の優れた科学技術を取入れ、日本を近代国家に育てようという西洋信奉と、それが行き過ぎて日本独自の精神を捨ててしまうことに対する警鐘と、その二つの間で揺れ動いていたと言います。
「国際人になるとはどういうことか」という問いに対する答えとして、次に紹介する新渡戸稲造の言葉は、間違いなく後者の警鐘にあたるものであり、珠玉の言葉であると思います。
「国や人が国際化、あるいは国際人になるということは、愛国心の延長線上にある。自国への愛国心を持たないものは相手の人も国についても正しく理解ができず、外国人との間に健全な国際関係は成り立ちえない」
シンプルですが、反論のしようがないくらい本質を突いた言葉だと思います。
ですが、昨今の日本においては、英語ができることが何よりも優先されるという意見さえ出てきてしまうような風潮があります。 しかし、世界を見回してみて、母国語がある、もしくはかつてあったにもかかわらず、現在は英語が公用語とされているような国家で世界的に尊敬されるような結果を出している国を見つけることができるでしょうか。
なかなか見つけられないと思います。
このことからも、英語の国際公用語としての便益と、国家におけるその国の母国語およびその国で培われた歴史と文化の重みとは、比較すべき対象ではありえないということを理解しなければなりません。
そのことに関連したことで、私が米国留学時代に感じた「日本っていいかも」と心底思った事柄があります。
それは、日本人は数少ないアジア諸国の中で自分の名前を堂々と英語の中で使用する国民だということです。 一方で、韓国人や中国人は、自分のファーストネームを使用せず、「Steve」とか「Jennifer」とか、その風貌に似ても似つかない(失礼!)名前を使用するのが一般的です。
名前というのは、たかが名前、されど名前です。
言ってみれば、自分自身のアイデンティティの源泉であり、自分のルーツにも関係する重要なものです。
まさに、自国への愛国心に直結したものだと言えるかもしれません。 日本人と英語の関係において、なかなか誇れる要素を探すのが大変なのですが、この名前に関しては、日本人が真の国際人への第一歩として大切にすべき「誇り」だと思っています。
本書において、新渡戸稲造のこの言葉を目にしたことで、このことを思い出し、思わず書いてしまいました。