外国語学習は旅行のごとし
2017年3月29日 CATEGORY - 日本人と英語
前々回、前回に引き続き、「日本語の論理」から印象深かったトピック
それは、外国語学習の副次的効用と弊害についてです。
まずは、外国語学習の副次的効用について。
著者はこのことを「外国語の学習は旅行のようなもの」と表現されており、私はこの表現によって、わが意を得た思いにさせられました。
その部分を少し長くなりますが、以下抜粋します。
「例えて言うならば、外国語の学習は旅行のようなものである。学習者は土地不案内な旅行者として外国語を訪れる。したがって、その土地についての知識では住民にとてもかなわない。ところが、そういう旅行者が未知の土地について、優れた観察や発見をすることが少なくない。旅行者の目が曇っていないからであるが、さらに旅行者は土地の人と違って、ほかとの比較ができるからである。それと同じように、外国語学習者もしばしば外国語について、本国人の思いもよらなかったような新しい面を指摘することができるものである。(中略)母国語では、事物と言葉があまりにも密着しているため、事物が言葉を覆い、あるいは逆に言葉が事物を覆っていることがしばしばである。この種の言語的弊害は母国語だけしか知らない場合、取り除くことができない。それどころか、弊害の起こっていること自体が意識されない。外国語を通じて、それをいわば斜めから見ると、言葉と事物の関係が絶対的なものでなくて、任意なものであることがはっきりする。そして、母国語だけではどうしても見えなかった部分が姿を見せるようになったりする。」
この「斜めから見る」感覚の重要性について、どれほど強調してもしきれないと私は思います。
そして、グローバル言語ではない日本語を母国語にもつ我々日本人にとっては非常に救われる見方であると思います。
ですが、同時にこのことは特に日本人は注意して考える必要があると思っています。
ここで、二つ目の外国語学習の弊害、特に幼児期における弊害について見ていきたいと思います。
それは、斜めから見ることができるようになるためには、まずはまっすぐものを見ることができる母国語を持っていなければならないということです。
常々私はこのブログでも言っていますが、思考の基礎となるのはあくまでも「母国語」です。
ですから、外国語をそれに代わる思考の基礎とすることを目的にする必要は絶対にありませんし、やるべきではありません。
私は自分の子供たちも含め、英語については中学校で始まるまであえて触れさせないようにし、その代わりに日本語での思考の基礎を作るに資する会話を彼らとの間で作り出したいと思っています。
読書をする習慣を身に付けさせることもそうですし、ただ読書をするだけではなく読書をした後、又はしている間に登場人物がなぜそのような行動をとったのか、もし自分だったらどうしたかをその理由とともに述べさせるようなことを遊びながらさせることを心がけています。
そこに英語の入り込むすきはありません。
私は、そのような積み重ねによって、中学校に上がるくらいまでには、日本語での思考の基礎作りはほぼ完成すると考えています。
もちろん、語彙などはまだまだ足りませんが、自らの持つ日本語の文法と語彙によって、あらゆるものを自分の頭で考えるための回路が完成するという意味での完成です。
そうなった後で、新鮮な気持ちで英語に触れるというタイミングを大事にしたいと思っているのです。ただ誤解のないようにしておきたいのは、これは「英語」に触れるという意味であって、外国人との接触をも断つという意味ではありません。
ですから、外国人やその文化と当たり前に接することのできる環境を与えるという意味では、幼児英語教育には一定の価値があることは否定をしません。
当然のことですが、自然体で彼らと臆することなく、触れ合うということは重要なことであると思っています。
少し、話はそれてしまいましたが、このように日本語で思考の基礎が完成した後に、外国語学習を開始することで初めて上記の「旅行者」になり得るわけです。
そのようなことを考えながら、本書を読み進めていましたら、この問題についての上記のような私の主張とまさに重なる見解を、外国語と母国語との関係と方言と標準語との関係を重ねながら指摘されていたので、そちらもあわせて抜粋します。
「小さな子供に無神経に標準語を詰め込むと、方言と標準語とが悪性の二重言語の問題を起こして知的発達を遅らせるかもしれない。それで、まず、方言的なものによって、個性的基本(三つ児の魂)を確立させる。その上で標準語教育を行うようにするのが良いのである。方言尊重を持ち出したのは、幼児の外国語教育と思考に言及しておきたかったから。幼児にはまず三つ児の魂を作るのが最重要である。これはなるべく私的な言語が良い。標準語より方言が良い。ここで外国語が混入するのは最もまずいことと思われる。ろくにものの言えない子供に代数を教える親はなかろう。母国語のたどたどしい幼児に外国語を教えるのは、それに近い乱暴なことである。」
私が常に言っていることをまさに「斜めから見る」ことで見事に言語化してくれていました。