文法遺伝子の正体
2019年6月7日 CATEGORY - 日本人と英語
書籍紹介ブログにてご紹介した「言語を生み出す本能」から、テーマをいただいて書いていますが、第五回のテーマは「文法遺伝子の正体」についてです。
このシリーズにおいては、言語は人間の本能、すなわち遺伝子に刻み込まれたプログラムであるという考え方をサポートする証拠をピックアップしてきました。
そして、次の記述のようについにその本丸とも思える部分に近づきました。
「ここまでくれば、文法遺伝子の正体が定義できる。ある種のDNA鎖が、特定のたんぱく質の遺伝暗号を持つか、または発達の特定の段階で脳の特定の部位においてタンパク質形成遺伝子の転写を作動する。こうしてできたたんぱく質がニューロンを導き、惹きつけ、結合して回路を形成する。この回路が学習によって強化されたシナプス群と組み合わされて、ある種の文法的課題を演算によって解決するために必要な言語回路を形成する。この現象の出発点になったDNA鎖が文法遺伝子である。」
ただし、文法遺伝子を定義できたからと言っても、それは文法遺伝子の実在を確認したこととは違います。そして、実際に著者は、「ヒトの遺伝子の中に文法遺伝子が含まれるとしても今のところ直接に存在を確認する方法はない」と告白しています。
そもそも、上記の文章では文系人としてはよく理解ができません。笑
ですので、上記の定義の中の重要な項目を、私たち人間が体感的に理解できる形で説明している部分と対照させていましたので一緒に確認してみましょう。
「こうしてできたたんぱく質がニューロンを導き、惹きつけ、結合して回路を形成する。この回路が学習によって強化されたシナプス群と組み合わされて、ある種の文法的課題を演算によって解決するために必要な言語回路を形成する。」
この部分は、以下のような長い説明の要約です。
「大脳皮質は何百万ものニューロンのネットワークで構成される。心的プロセスを支えるのはこの複雑な回路である。ここでニューロンの目から見たら文法的情報の処理がこうも見えようか、ということをモデル化したものを紹介する。神経回路モデルの基本単位はニューロンであるが、これは活動状態(興奮)か非活動状態(抑制)かのいずれかの状態でしかいられない。ニューロンは自分とつながっているほかのニューロンにシナプス(接合部)を経由して興奮か抑制の信号として伝える。受け手のニューロンは興奮を伝えるシナプスから入ってくる信号を合計し、抑止シナプスから入ってくる信号を差し引く。結果が閾値を超えれば受け手のニューロンも活動状態になる。これらのネットワークがある程度の規模になれば、演算装置として機能し、正確に表現できる問題ならなんでも答えを算出することができる。では、このニューロン回路に、やや複雑な文法ルールを演算させてみよう。英語の活用接尾辞sは次の条件が満たされたとき、動詞に付けなければならない。すなわち、主語が三人称であり、かつ単数であり、かつ動作が現在であること。この場合、一番初めに語活用の特徴に対応するニューロンが並ぶ。例えば、一人称、二人称、三人称、単数、複数、現在、過去等だ。そして、このうち「三人称、単数、現在」の組み合わせに対応する次のニューロンにつながる。そのニューロンは、活用形sに対応するニューロンを興奮させることで演算が完了する。ただし、これらのつながりは英語に固有のものだから、実際の脳は学習によって回路をつなぐ必要があるだろう。これをベースに赤ん坊の脳回路はどんな風か考えてみよう。それぞれのニューロン群は生まれつき脳の中にあり、赤ん坊の脳回路ではある群のすべてのニューロンから別の群のすべてのニューロンにつながっていると考えられる。つまり、赤ん坊は生まれつき、例えば人称、数、時制などの組み合わせに対応する不規則性がいかなるものであっても対応できる可能性(つながり)を担保していて、どれが使えるかを習得することは、その母語にとって必要な部分を強化し、それ以外を衰退させることに相当する。」
実は、本来の文章は、正確性を期するためということと本書が翻訳本ということもあって、私にとっては非常に分かりにくい記述でした。ですので、何度も何度も読み返して、自分なりに必要な部分を抽出し、また表現を変えることで大幅な修正を加えています。
著者に叱られてしまうかもしれないほど大幅に変更を加えましたが、多くの方に「なるほど」と思っていただけるくらいにまとめられたと思っています。
言語、特に文法が、人間の「本能」であり、文法遺伝子は存在するという仮説のキモはまさにこの、「生まれつき脳の中にある赤ん坊の回路は、ある群のすべてのニューロンから別の群のすべてのニューロンにつながっている状態そのものであるから、赤ん坊は生まれつき例えば人称、数、時制などの組み合わせに対応する不規則性がいかなるものであっても対応できる可能性を担保している」ということではないかと私はとらえました。
だから、全ての赤ん坊は母語習得に関して言えば、「天才」であり、母語習得が進めば進むほど、可能性の広がりを衰退させるという意味で、「凡才」になっていくということでしょう。
かなり体感的に理解できるようになったような気がします。