日本人と英語

母国語が国際語なのは幸福なことか

2016年3月4日 CATEGORY - 日本人と英語

国際語              

 

 

 

 

 

 

三回にわたって、「日本人にとって英語とは何か」からテーマをいただいて書いてきましたが、最終回の今回はそもそも日本人にとって英語を学ばなければならないことは、不幸なことかどうかについて考えてみたいと思います。

逆に、見方を変えれば、国際語である英語を母国語としているイギリス人やアメリカ人は幸せかどうかということにもなります。

このテーマに関して、著者はこの本を通じて、次のような解釈をしているように思われます。

「日本人にとって英語(の教育)とは、日本語・日本文化の単一的土壌の中で、しかも日本流モノサシだけを使って教育を受けることを唯一回避する機会である(はず)」

というものです。

私はこの考えに非常に親近感を覚えます。 というのも、私の自著「富士山メソッド」の最後の「日本語というマイナー言語を母国語に持つ日本人は損か?」というコラムで以下のようなことを書いています。

「日本文化というマイナー性を英語というツールを活用して世界に発信することで、グローバルスタンダードの下で発展し続ける世界に『きらっ』と光る刺激を与えられ、よりよい発展に貢献できるマイナー国民となることができるのではないかと思います。ですから、私はマイナー文化圏の日本人は損ではないと主張したいと思います。」

ただ、著者は、日本においては、最後に(はず)と書いたように、実際には本来、そうであるべきことがなかなかうまくはいかずに、せっかくの異質の言語・文化である英語をまるで他の教科と同様に、日本語・日本文化の土壌の中に持ち込んで、日本流モノサシを唯一のモノサシとし考えて英語を教えてしまっているとも指摘されています。

特に昨今のグローバル化の進展に伴って、「不幸にして日本語は国際語ではない。」とか「残念ながら日本語は世界に通じない」というマイナスな発言とともに、「国際社会では、英語で育った人は絶対優位で、ほかの人々は大損害をする」というような論調が大勢を占めるようになってきてもいます。

このような日本の状況とは対照的に、今まで「英語で間に合わないことは一つもない」と言わんばかりに外国語教育に無関心だったイギリスやアメリカが、世界の英語化の勢いとは反比例するような形で、外国語教育に力を入れるようになってきているようです。

その原因として、イギリスでは「我々には外国語の知識は必要ない」と思いあがっていた長年の英語文化中心主義が、やがては不幸な文化的偏狭を生み、結果、イギリス人の文化的活力を奪うことにつながったという自己反省があげられると言われています。

また、アメリカでは、2001年9月1日の同時テロは、アメリカが異文化理解の努力を怠ったことも一因だという反省から、アラビア語はもちろんのこと、いままでアメリカ国民の関心の薄かった言語である中国語、ペルシャ語、ヒンドゥー語、日本語などをあえて「重要語」にしているとも言います。

これらのことが、アメリカの異文化理解につながり、アメリカの安全性が高まっているかどうかには、大きな疑問がありますが、ただし、少なくともこの両国は、自らの母国語である英語が「国際語」であることで、自分のモノサシだけで世界を捉えることが得策ではないことを自覚していることは間違いないようです。

このことは、やはり書籍紹介ブログのところで指摘したように、「国際人」の本質とは、文化と文化との「違い」を冷静に受け止め、理解し、尊重する力をもつことであるということを証明しているような気がします。