「聴くこと」と「尋ねること」
2016年11月20日 CATEGORY - 日本人と英語
前回、書籍紹介ブログにて、「英語の仕事術」をご紹介しましたが、この本の中からいくつかテーマをいただき議論してみたいと思います。
今回は、「聴くこと」についてです。
本書において著者は、「聴くこと」はすべてのコミュニケーションの基礎であると述べられています。その中で、日本の会議のような発表者が一方的に言いたいことを伝えるコミュニケーションはありえないという主張の明確な理由があげられていました。
それは、「聴くこと」と「尋ねる」ことは表裏一体であるという考え方があるからです。
この考え方は、アメリカのように多くの民族が入り混じってコミュニティーを構成している場合、様々なバックグラウンドや文化が異なっており、一方的な意思の伝達では、高い確率でミスコミュニケーションが起こってしまう危険性があるため、それを避けるためには、当然にして「尋ねること」が欠かせないという考え方です。
その結果、相手が黙って聞いているだけで、あなたに何も質問してこないのであれば、相手が本当に理解できているかどうかわからないし、言葉の定義や意味も、人によって解釈の仕方は異なる可能性があるため、こちらが分かったつもりになっていても、実は相手の話を誤解している可能性も十分にあるということです。
アメリカ人は、このようなことを前提として理解しているために、「尋ねること」をしなければ「聴いていること」にはならないという共通認識があるというわけです。
なるほどと思いました。
しかしながら、日本では、もともとアメリカなどと違い、民族は単一とまではいかないまでも、非常に共通性が高いバックグラウンドを持ち、文化も画一的であるため、ほとんどミスコミュニケーションが生じる可能性が低かったという事情があります。
その中で作り上げられたという事情もあったのかもしれませんが、教育環境自体に根本的な違いがあることに気が付きます。
日本の学校のクラスは40人が基本です。それに対して、欧米では多くて20人の少人数クラスが主流。これを見ただけでも、日本における授業が「尋ねる」ことを前提に作られていないことは明らかなのです。
そのため、そもそも日本人は、「尋ねる」スキルを学ぶ機会を与えられていないことになります。
ですから、「聴くこと」と「尋ねる」ことは表裏一体であるという考え方においては、日本人は英語に限らず、母国語である日本語であってもコミュニケーションが上手になる可能性が低くならざるを得ません。
このことは、日本人の活動が日本国内だけで済んでいるうちは大きな問題にはならず、逆に一方的な情報から相手の言わんとしていることをつかむ技術、すなわち情報の受け手の「空気を読む」技術が独自に進化していったわけでです。
しかし、ここまでグローバル化が進んでしまうと、この独自技術はもはや「ガラパゴス」的技術と化してしまいます。そして、その傾向はこれからどんどん進んでいくことになります。
そういった意味では、我々日本人も「尋ねること」をしなければ「聴いていること」にはならないという共通認識を持ち、効果的に「尋ねる」スキルをある程度は磨く必要があると感じました。