英語しかない世界
2019年1月9日 CATEGORY - 日本人と英語
書籍紹介ブログにてご紹介した「日本語が亡びるとき」より「マイナー言語の存在意義」について考えてきましたが、第三回目の今回は、マイナー言語がこの世からなくなった「英語しかない世界」を想像することにしてみたいと思います。
本書を読んで最も印象的だったことは、小説家の想像したものを表現する力の豊富さです。それは、次のような表現からも伝わってきます。
「想像してみてください。これから百年先、二百年先、三百年先、最も教養がある人たちだけでなく、最も明晰な頭脳を持った人たち、最も深い精神を持った人たち、最も繊細な心を持った人たちが、英語でしか表現をしなくなった時のことを。他の言葉がすべて堕落した言葉、知性を欠いた愚かな言葉になってしまったときのことを。想像してみてください。一つの『ロゴス=言葉=論理』が暴政を振るう世界を。何というまがまがしい世界か。そして、なんという悲しい世界か。そのような世界を生きるのは、強いられた非対称性を生きるよりも無限に悲しいものです。小説家がやや誇大妄想狂な人たちだというのは、皆さんもご存じだと思います。恥ずかしながら、私も例外ではないようです。ですから、私のようなものも、かくも孤立した言葉で書きながらも、『人類』を救うため、悲しい運命から『人類』を救うために日々奮闘しているなどと思っているのです。」
私は、日本人にとっての言葉との付き合い方については、かなり保守的な考え方の持ち主だと自負してきました。
その考えとは、「日本人にとっての日本語は『思考の基礎』であって、英語は『ツール』に過ぎない」というものです。
とは言うものの、心のどこかに、これが現時点での認識に過ぎないという条件付きの考え方にとどまる可能性を留め置いていたようなところがありました。
それは、このままのスピードで英語の「普遍語」化が進んでいけば、世界の「知」の世界はどんどん英語によって支配され、日本語というマイナー言語で「知」の世界を歩むことのマイナス面が大きくなり、日本人もいつかどこかのタイミングでは、『思考の基礎』までも英語に委ねざるを得ない時が来るかもしれないと言う可能性を捨てきれなかったということです。
しかし、本書に出会って、それはタイミングの問題ではなく、本質的問題なのだとはっきりわかったような気がします。
マイナー言語である日本語を母国語としているという運命を、もっと積極的に受け止め、日本人として英語という「普遍」と日本語という「特殊」の非対称の間を行き来できることを明確に「価値」として認識できるようにならなければならないと確信しました。
本書のおかげで、「日本人にとっての日本語は『思考の基礎』であって、英語は『ツール』に過ぎない」という信念をもう二度と条件付きのものとしない決心がつきました。