日本人と英語

英語名人の時代

2015年5月6日 CATEGORY - 日本人と英語

クラーク博士

 

 

 

 

 

 

前回に引き続いて「英語と日本人」からの引用です。

植民地支配をうけず、「英語下手」という贅沢な状況を手にした日本にも、かつて「英語名人」が続々排出された時期がありました。 1875年(明治8年)ごろからほぼ10年弱の期間に高等教育を受ける機会に恵まれた人々が、近代日本で最も英語を深く身に着けるグループであると指摘されています。

その理由を以下のように述べています。

「明治になって、西洋的学問の必要が痛切に感じられたが、はじめはそれを教えることのできる日本人がほとんどいなかったので、高等教育はほとんどすべて外国人教師に頼らなければならなかった。こういう状況では、高等教育を受けようとするものを収容する中学校程度の学校でも、その準備として彼らに十分な外国語の力を身につけさせることに全力を尽くさざるを得ない。」

そうして、作り出された「英語名人」が内村鑑三、新渡戸稲造、そして岡倉覚三(天心)などの人々です。彼らの英語達人っぷりに関しては書籍紹介ブログにて「英語達人列伝」を取り上げていますのでご参考ください。

本書では、あのクラーク博士が札幌農学校(現北海道大学)の学生を評価する言葉として、「私たちは、彼らがマサチューセッツ農学校に入学許可になる学生の平均に決して引けをとらない位の学力を持っていると思いました。」を紹介しています。

これはまさに、前回でご紹介した『英語のじょうずな旧植民地の学者たち』の状況と全く同じといえます。 ですから、日本人が性質的に外国語を学ぶのに適してないのではないかという議論は完全に消滅することになります。要するに、借り物の言語であってもそれを道具として高等教育を学べばその言語の名人になるのに時間はそう必要ではないという証拠といえます。

ただし、それは自国語で学問を行うことを放棄することと引き換えにということになります。 日本において、「英語名人時代」が10年ほどで終わり、フィリピンなどの旧植民地国家では現時点でもそれが続いている理由は、日本においてのみ時の政府ができるだけ早く、とてつもない高給をとる外国人教師を邦人教師で置き換えようという方針をとったことです。 当然、そのことを実現するために、それらを学ぶために必要な英語の語彙を日本語に置き換え、また日本語の枠内に存在しない概念については造語をするという気の遠くなる作業をする必要がありました。 そして、彼らはそれをやり遂げました。

そのため、その後は当然、日本人の英語力は急速に落ちていきます。もちろん、そのことに対して危機感を感じ警鐘を鳴らす人間もいないわけではありませんでしたが、基本的にはそのこと自体は「よいこと」ととらえられていたと言います。 その証拠として、当時英語教師としても活躍していた夏目漱石の言葉を引用します。

「英語の力の衰へた一原因は、日本の教育が正当な順序で発達した結果で、一方からいふと当然のことである。「日本」といふ頭をもって、独立した国家といふ点から考へると、かかる教育は一種の屈辱で、あたかも英国の属国印度といったやうな感じが起こる。日本のnationalityは誰が見ても大切である。英語の知識くらいと交換のできるはずのものではない。したがって国家生存の基礎が堅固になるにつれて、以上のような教育は事前勢いを失うべきが至当で、又事実としてだんだんその地歩を奪われたのである。」

日本人の英語力のなさは、まさにこの国家としての精神的な独立とのトレードオフの関係にあると言えるわけです。 このことを理解することが、前回に引き続いて日本人がどのように英語と付き合っていくためのヒントになるのではないかと思いました。

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