日本語は「非論理」ではなく「超論理」
2017年3月31日 CATEGORY - 日本人と英語
前回まで三回にわたって、「日本語の論理」から印象深かったトピック
それほど本書は、日本人の言語観について非常に多くの貴重な視点を提供してくれる良書だと思います。
最終回である今回のトピックは、タイトルの通り、日本語は「非論理」ではなく「超論理」的な言語であるということを明らかにしたいと思います。
本書は、そもそも、「日本語は英語をはじめとする欧米の言語に比べて非論理的である。」という評価に真っ向から対抗し日本語に対する様々な思索を通じて、日本語には日本語の「論理」というものがあるということを明らかにすることを目的とした本です。
その本の最終的な主張が、この「日本語は非論理ではなく超論理的な言語である」だと思います。
一般的に、というか欧米的に、言語は対象をあるがままに表現することが尊重される「べき」ものと考えられていますが、その考えからすれば、主語があいまいで間接的な表現が多用される日本語はまさに「非論理」的であるということになります。
しかし、ここで著者は次のような非常に面白い比喩を出しています。
「写真術が発明されると、写真の代用のような肖像画は次第にすたれてしまった。すると絵画は写真の出せないような美しさを追求することになる。その写真も、はじめのうちは鮮明な映像を得ることに力がそそがれる。しかし、少しカメラの経験が長くなると、ただ焦点があっているというだけの鮮明な写真なら楽にとることができるようになる。それとともに、鮮明な画像だけでは、面白くなく、却って少し平板で何かかけているような印象を持つようになる。はっきり写っているものは、受け手の側で働かす解釈の余地が少ないからであろう。」
日本語では、相手のことになるべく直接的に言及しないで意味を伝えようとする表現法が発達しています。
まさに、これは著者の写真の説明のように、当面の対象にレンズを向けず、ほかの方に向けて間接的に意味を表そうとする、具体的には、主語のはっきりさせなかったり、人によって表現を変える敬語であったり、日本語の特色そのものではないかというわけです。
言いたいことをあえて抑えて、間接的表現を駆使してぼかしながら皮肉やユーモアを含んで面白さを作り出すことが当たり前のように行われるのが日本語という言語です。
著者はこのことを、しばらく母国に帰国して戻ってきた日本語の上手なアメリカ人の発言を利用して、鋭くあぶりだしています。
「日本に比べてアメリカのテレビ・コマーシャルは実につまらない。センスがない。」
つまりは、アメリカのCMはあまりにも正直すぎでうんざりだと言うのです。
これこそが、「日本語は非論理ではなく超論理的な言語である」ことの証明ではないでしょうか。
そう考えると、特に文学の世界でノーベル賞という世界で最高とされる賞が、欧米のセンスで評価されるということに大きな疑問を覚えてしまうのですが、それでも毎年のように受賞者にノミネートされる日本人がいるということは、そのことを裏付けるものではないでしょうか。
私もこの点、日本語の「超論理」性を擁護する一人です。