「書くこと」の意味
2017年4月26日 CATEGORY - 代表ブログ
皆さん、こんにちは。
前々回、前回に引き続き、「国語のできる子どもを育てる」という本について、今回は「書くことの意味」について考えてみたいと思います。
前回のコボちゃん作文のところで、「(書く対象について)自分自身がはっきりと理解していなければ書けない」ので、逆に言えば、「書くこと」はものをはっきりと理解することにつながると言えます。
著者の言葉を借りれば、「書くこと(人前で話すということ・人に教えることも含め)」は、「形の定かではない思いに形を与えること」ということになるでしょう。
私には、このことについてピッタリの中学高校時代のエピソードがあります。
部活の二つ上の先輩だったのですが、彼は決していわゆる勉強のできる人ではありませんでした。どちらかといえばちょっとツッパってるくらいの人でした。ですが、私の中では今まで出会った人の中で最も「理解力の高い」人のひとりだと思える人なのです。
なぜなら彼は、自分が見た映画について、まるでその映画が上映されたかのように錯覚させるくらい上手に再現することができたのです。
もちろん、言葉だけで。
私は、未だかつて、彼よりも物事を口だけで臨場感をもって表現できた人を知りません。
今から考えると、彼は、コボちゃん作文のようなトレーニングを無意識的に行っていたのではないかと思えて仕方がありません。
当時私も、彼のそんなところを盗みたくてその秘訣を探ろうとしましたが、残念ながら、特別なことをしているようではありませんでした。
ただ本当におしゃべり好きで、人に対して自分の趣味であるF1やスケボーのことについて話してくれていました。もしかしたら、「おしゃべり好き」だという性質が彼にとっての「エア」コボちゃん作文だったのではないかと思えます。
続いて、「プロセス原稿用紙」のところで分かったことは、「書くこと」は「考えること」だということでした。
既に自らが持っている知識や情報の断片を新しく組み合わせて、さらに「考える」ことで、全く新しい知識や情報を生み出すことができるということです。
しかも、その組み合わせの仕方は論理的におかしくなければ、無限に展開可能です。
もちろん、人は、「人前で話すということ」「人に教えること」も含め、書かなくても頭の中で考えることができますが、それを頭の外に文字として形にすることで、あとから繰り返して読んだり、他者の参加を可能とすることで、その組み合わせのバリエーションを増やすことができるため、更に深く多様に考えることが可能となります。
つまり、「書くこと」とは、考えることそのものであるとともに、その「考える力」、すなわち日本語という日本人にとっての母国語を「思考の基礎」として機能させる能力を高めるための最も効果的なトレーニングになり得ると思うのです。
この重要性は、特に子供の幼児期に何をさせるのかを考える上で、いくら強調してもし過ぎることはないと思います。