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ゲシュタルト崩壊

2017年11月19日 CATEGORY - 代表ブログ

皆さん、こんにちは。

齋藤孝教授の「文脈力こそが知性である」を読みました。

以前に教授の「語彙力こそが教養である」をご紹介しましたが、その中で教授は、「語彙は、文脈の中で初めて生きてくるものです。膨大な語彙も文脈があってこそ、確かな教養へと姿を変えていくのです。」とおっしゃっていました。

ですから極論すれば、語彙は思考の「道具」で、文脈力こそがその道具を活用して行う「思考」そのものだとも言えるのかも知れません。

本書は、その「文脈力」、すなわち「思考=知性」そのものにスポットを当てて書かれています。

前書が非常に面白かったので、本書も非常に楽しみに本を広げ始めたのですが、なんと冒頭から衝撃的な知的体験をしてしまいました。

それは、「はじめに」の中で、前書「語彙力こそが教養である」について齋藤教授が女優の壇蜜さんと元アナウンサーの久米宏さんの対談の中で、壇蜜さんが不意に、「語彙の『彙』のもじってゲシュタルト崩壊が起きそう・・・」と発言したことについて、教授も久米さんも壇蜜さんのにじみ出るような知性に驚いたという話についてのことです。

その話自体は、本書の導入部分で大事なキーワード・テーマにつなげるためのものだったのですが、私にとってはそれが、それ以上に衝撃的「発見」だったのでした。

というのも、私はかつて「やかんの恐怖」というブログ記事にて、

「『やかん』には、漢字がなく、ひらがなという単なる表音文字を三つ「や」と「か」と「ん」を並べてあるだけ、しかもアクセントも全くない「や・か・ん」という単調なものです。すなわち、「や・か・ん」という単調な音だけが冒頭写真の物体を表現するという言語的な「お約束」だけで成り立っているわけで、その意味のない音の組み合わせの記憶に少しでも失敗したら、私は「やかん」を他人に対して即座に伝える術を失ってしまうリスクに常に「恐怖」を感じていたということです。」

という自分一人だけが、ずっと悩んでいた不安(だと思い込んでいた)について告白しました。

ところが、実は、私のこの「やかんの恐怖」は私一人のものではなく、学術的にもすでに認知されている「ゲシュタルト崩壊」という現象だったということが分かってしまったのです!

ウィキペディアによると、「ゲシュタルト崩壊」とは、

「知覚における現象のひとつ。 全体性を持ったまとまりのある構造から全体性が失われてしまい、個々の構成部分にバラバラに切り離して認識し直されてしまう現象をいう。幾何学図形、文字、顔など、視覚的なものがよく知られているが、聴覚や皮膚感覚においても生じうる。」

ということです。

壇蜜さんのお話では、「漢字」についての現象だという事でしたが、実際にはひらがなのまとまりで意味を成す「やかん」というお約束でもそれは言えるはずです。

いやむしろ、漢字というそれを構成する一つ一つの部品が意味を持つ物の組み合わせによって「薬罐」というそれよりも詳しい意味を作り出すことの方が、音声だけで意味の約束のないひらがなの組み合わせである「やかん」の方が、よほど「ゲシュタルト崩壊」は起きやすいということが言えるはずです。

つまり、「ゲシュタルト崩壊」を防ぐためには、「意味の繋がり」、すなわち文脈の力が重要なのだということが、前回の私のブログの言いたいことでしたし、本書における齋藤教授の考えと一致するものであると思います。

今回は、齋藤孝教授の「文脈力こそが知性である」を紹介するつもりが私の「大発見」の話で終始してしまいました。

本書の紹介は次回にしたいと思います。