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福澤諭吉の幼児教育論

2016年4月1日 CATEGORY - 代表ブログ

幼児教育                

 

 

 

 

 

 

 

先日、日本人と英語ブログにて、福沢諭吉の自伝である「福翁自伝」を取り上げて「福澤諭吉の英語学習」という記事を書きました。

今回は、同じく「福翁自伝」の中から、福澤の子供の教育に関する考え方をご紹介します。

と言いますのも、このように書くととても高慢な書き方と言われそうなのですが、本書の中での子供の教育に関する考え方がまさに私のそれとぴったりと一致していたのです。いや、すみません、私の考え方が、本書の考えに一致しておりました。(笑)

私は常々、小学校くらいまでは、特に子供に特別な教育を施すことを避けるべきだと考えています。とても不思議に思われるのですが、私の子供たちには極力ランゲッジ・ヴィレッジには足を踏み入れさせないようにしています。

ランゲッジ・ヴィレッジに関しては、英語という外国語に触れさせて、母国語という思考の基礎がつくられる前に、その構築を邪魔させたくないからという普段このブログでしつこいくらいに述べている理由でご理解はいただけると思いますが、その他の、いわゆるお勉強系の習い事もさせないようにしています。

その代わりに、自分たちがやりたいという体育系のものや、文化系のものについてはやらせています。これも本当のことを言うと、やらせたくないと思っているのですが、夫婦の衝突が起こらないよう、バランスをとった結果です。(笑)

なぜなら、子供たちには、自ら時間をコントロールして、自らの発想で自由な活動をしてほしいからです。

私自身の経験で、もっともよかったなと思える子供のころの時間の使い方としては、カブトムシを効率よく捕まえる方法を、試行錯誤の末見つけ出し、捕まえた成虫から、卵を産ませ、幼虫にし、それをまた成虫まで育てるということを自分自身の力で行うといったことがあげられます。

このような活動によってつくられた夏の自由研究は、どんなにお金のかかる習い事よりも、子供の総合的な考える力を育てると思います。

このように総合的な考える力を小学校くらいまででしっかり身に付けたうえで、中学校に上がれば、あらゆる教科の学習が退屈な受身の内容ではなく、知的好奇心をくすぐる刺激的な内容に見えるはずです。

例えば、英語を例にとれば、この時点でしっかりと母国語による思考の基礎が出来上がっていれば、子供たちが英語というグローバルなコミュニケーションを可能とする道具の存在に出会ったとき、それを主体的に学ぼうと思わないわけがなくなると思うのです。

そうなったら、彼らは、それを身に付けるための最良の方法を自ら開発していくはずだと私は信じています。そこからが、彼らにとっての本当の意味での学問が始まるのです。 これが、私の「反幼児教育」の発想です。

お待たせしました。ここで、「福翁自伝」の中から、福澤の子供の教育に関する一節を引用します。

「さてまた子供の教育法については、私はもっぱら身体のほうを大事にして、幼少の時から強いて読書などさせない。『まず獣身をなして後に人心を養う』というのが私の主義であるから、生まれて三歳五歳までは『いろは』の字も見せず、七、八歳にもなれば字の練習をさせたりさせなかったりで、まだ読書はさせない。それまではただ暴れ次第に暴れさせて、ただ衣食にはよく気を付けてやり、また子供ながらも卑劣なことをしたり、卑しい言葉をまねたりすればこれを咎めるだけのこと。その他は一切投げやりにして自由自在にしておくその有様は、犬猫の子を育てるのと変わることはない。すなわちこれがまず獣身を成すの法にして、幸いに犬猫のように成長して無事無病、八、九歳か十歳にもなればそこで初めて教育の門に入れて、本当に毎日、時を定めて修行をさせる。なお、その時にも身体のことは決してなおざりにしない。」

驚くのは、あの慶應義塾の創始者である福澤諭吉が、私よりもよほど極端な「反幼児教育」主義者であるということです。

私もかなりの程度だと思っていましたが、「犬猫の子を育てるのと変わることはない」とまでは言ってません。(笑)

もう少し、引用します。

「世間の父母はどうかすると勉強勉強といって、子供が静かに読書すればこれをほめる者が多いが、私方の子供は読書勉強してほめられたことはないだけでなく、私は反対にこれを止めている。年齢不似合に遠足したとか、柔術体操がうまくなったとか言えば褒美でも与えて褒めてやるけれども、本をよく読むと言ってほめたことはない。」

繰り返しますが、これは、あの慶應義塾の創始者である福澤諭吉本人の言葉です。 このブログを私の家内が読んでくれていることを望みます。(笑)