
日本語で生きるとは
2025年7月21日 CATEGORY - 代表ブログ

皆さん、こんにちは。
前回の「投票日の雑感」の記事の中でご紹介した作家の片岡義男氏の「日本語で生きるとは」を宣言通り読みはじめました。
すると、「まえがき」の最初の最初に以下の言葉を見つけ、それによって私の興味がMAXとなりました。
「『よろしくお願いします』という日本語を英語で言うには、なんといえばいいのですかと、十カ月ほどの間に五人の人たちから聞かれたことが、僕がこの本を書くためのきっかけとなった。五人ともいつも日本にいて、日本語で仕事をしている、二十代から五十代までの日本人だ。」
なぜ私がこの言葉に興味をMAXにされたのか。
それは、私が小学校4年生の時の担任のS先生のことを思い出したからです。
先生は本当に変わり者(と多くの生徒とその親に思われていて)で今のご時世ではすぐにクビになってしまうであろう発言や行動をしていたのですが、私にはその一つ一つが妙に納得のいくものと感じられて、当時自覚はなかったとは思いますが、今考えればそれは「こういう大人になりたい」という尊敬の念を抱いたのだと思います。
その発言の一つが、「正月の年賀状に『今年もよろしくお願いします』と書いた奴には俺は年賀状を返さないし、国語の成績は0点にしてやる。」というものでした。
そしてその理由が、「よろしく」「お願いする」という言葉には、何をどうすることを「お願い」するのか全く持って言語の体をなしていない、またそれだけでなくお願いするという態度なのにもかかわらずそれを「よろしく」というあいまいで無責任な副詞で修飾するのはあまりにも失礼だから、ということでした。
この時に、私は言語を論理的に、そして意識的に使うことの大切さを強く理解させられたような気がします。また、そのことが今の仕事の選択に少なからず影響を与えたのだと思っています。
と、この言葉を目にした瞬間にこの思い出に頭全体が支配され、続きを読むことができなくなってしまったのですが、少し落ち着いて再度読み始めたときに、またもや次の衝撃的な一節が目に飛び込んできました。
「僕がまだ子供だった頃の大人たちは、『よろしくお願いします』という言葉をあまり使っていなかったと、僕は記憶している。今(本書の出版は1995年)の人たちは、とかくこの言葉を多用する。『よろしくお願いします』という一言が使われる場として、他の全ての場にとって基準となるような、基本的場というものはあるだろうか。ほとんどが何の意味もなく、ただそのような音声を、それにふさわしい口調で言っておくだけという種類の挨拶用語である場合は、意味が最も希薄であるという点で、基本になるかもしれない。」
そして、こうも続きます。
「意味はいかに希薄でも、『よろしくお願いします』という自分とその相手との間に、何らかの関係が発生していることは確かだ。関係が発生していなければ、『よろしくお願いします』という必要は生まれない。だからこの一言は、自分と相手との間に発生している関係の確認なのだ。関係は無数にある。内容も様々だ。関係の質も方向も、関係ごとに無限に違っている。しかし、ほとんどの場合、『よろしくお願いします』という言葉で間にあう。」
もう、これだけで本書を手に取った甲斐があったというものです。
私は、英語と日本語との比較において、いかに英語が論理を重視する言語であり、日本語が論理を軽視し、空気・文脈・関係を重視する言語であるか、またそれによって、外国語としての英語の学びやすさと日本語の学びにくさという性質が副次的に生じてしまっていることをこのブログでも何度も取り上げてきました。
そのことを著者の本書冒頭におけるこの二つの文章によって一瞬にしてイメージできるようになり、S先生の当時の言葉に秘められたその奥深さを40年近く経った今、もう一段階高いレベルで理解することができました。
つまり、40年前からS先生が、グローバル社会の到来を明確に予期するだけでなく、気たるべき低文脈共有社会に備えて論理的言語活動を小学四年生の私たちに奨励していたのだと(笑)。
人、そして本との出会いのすばらしさをただただ噛みしめています。









