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「道具」にもほどがあるのか

2026年1月7日 CATEGORY - 代表ブログ

皆さん、こんにちは。

昨日(2026年1月6日)の読売新聞夕刊「よみうり寸評」の記事に新年早々考えさせられる記事がありました。

以下、重要部分を要約します。

「中島敦の小説『文字禍』には、古代のアッシリア帝国で、文字が人々にもたらす害を研究する老博士が登場する。博士は『文字の霊』が存在すると確信し、文字を覚えた人々の目が悪くなったことばかりか、せきやくしゃみまでもが、文字の霊の仕業だと説く。さらに、文字を便利に使っているようで<<わしらこそ彼ら文字の精霊にこき使われる下僕じゃ>>と語る。政府が昨年末にまとめた『人工知能基本計画』を読んで思い出した一節だ。文字はアッシリアでは粘土板に刻まれ、のちの印刷技術の発明を経て人類の発展に大きく寄与したことは疑いない。AIはどうだろう。大切なのはあくまで道具と心得ることだ。」

いや~、この短い記事に物事の「本質」をつかむことの大切さを思い知らされて気がしました。

私たちはAIを恐れ、自らの頭で物事を考えなければならないという問題意識もって、AI脅威論を語るわけですが、それは本質を見事に外した議論だと言わざるを得ないというわけです。

文字の発明とは、それまで人間の頭の中にとどめられていた「記憶」を外部化し、それを世代を超えて情報として受け継ぎ、人類の財産とすることを実現するものでした。

この文字の存在に対して今の私たちは「脅威」に感じることは全くなく、むしろ、文字を使わなければ頭を使うことすらできないと信じ込んでいるくらいです。

それは、中島敦が生きていた大正時代にもそうだったはずですが、彼の小説の中のアッシリア人の狼狽ぶりは、十分に納得できるものに私は感じられました。

AIの発明も、あくまでも人間の頭の中に行われていた「思考」を外部化し、それを集積することでその「思考」の規模を拡大することで、より大きな情報を作り出し、人類の財産とすることを実現するものという意味では、見事に文字の発明とその本質は一緒だと説得させられたのです。

<<わしらこそ彼ら文字(AI)の精霊にこき使われる下僕じゃ>>の世界になるのかならないのか、やはりそれはどこまで行っても、AIをあくまで「道具」と心得る私たち人間の心的態度にかかっているはずです。

決して、AIを「道具」にもほどがある存在にさせないようにしていきたいものです。

 

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