TOEICテスト900点。それでも英語が話せない人、話せる人 #29
2014年5月10日 CATEGORY - おすすめ書籍紹介
【書籍名】 TOEICテスト900点。それでも英語が話せない人、話せる人
【著者】 ヒロ前田
【出版社】 株式会社KADOKAWA
【価格】 ¥1470(税込み)
【購入】 こちら
私はさまざまなところでTOEICというテストに対する多くの日本人の付き合い方があまり健康的なものでないという批判的な考えを何度か披露してきました。
その理由は、この表題のように、日本社会がTOEICのスコアをここまで重要視しているのに実際には「TOEICテスト900点。それでも英語が話せない人、話せる人」がいるという現実は、TOEICが少なくとも英語コミュニケーション能力の測定試験としてはうまく機能していないことを意味するからです。
このことは、私の中では真理です。しかし、世の中をすべてこの論理で説得することができていないことも同時に事実です。現実はTOEIC全盛の世の中なわけですから。
したがって、コミュニケーション能力の向上に特化したトレーニング施設であるLVを運営するということは、どうしたらこの真理をすべての方々にご理解いただけるようになるのだろうかという課題を常に抱え、悩みながら活動するということといっても過言ではありません。
この度、世の中に対する「説得」に資する合理的な考えがまとめられた書籍を見つけましたのでご紹介します。
当記事のタイトルのとおり「TOEICテスト900点。それでも英語が話せない人、話せる人」です。
著者は、TOEICトレーナーの中では確実に日本で3本の指に入るであろう一流のトレーナー、ヒロ前田氏です。
彼のセミナーには私も実際に参加したことがあり、彼のTOEICのテクニック教授技術は正に「絶品」であることは知っておりました。ですので、LVに対してTOEICのスコア向上のみを目的に問合せされる方には、躊躇なくLVの合宿ではなく、彼のセミナーの受講、もしくは書籍での学習を勧めています。
今回この本を読んで、もう一歩踏み込んで彼の評価が私の中で高まりました。それは、本書の中で明らかにされている彼のTOEICという試験に対する圧倒的な洞察力からです。
彼は、TOEICのスコアを社会がここまで重要視することを決して否定しません。しかし、それと同時に、TOEICが英語を話す力の測定に資することがない、つまりTOEICのスコアと英語を話す力に因果関係があるはずもないことも認めているのです。
彼の素晴らしい洞察力は以下のような例示に表れています。(一部加筆修正)
『1990年代の前半くらいまでは、英語の資格といえば英検で、TOEICは資格というより「体力測定」として機能していました。「走り幅跳び」や「反復横跳び」のように、英語のリスニング力とリーディング力を数字で示す物差しでした。ですから、翌日に体力測定があるからと言って走り幅跳びを「攻略」する人はいないのと同様にTOEICを攻略しようとする人も皆無でした。
2000年からでしょうか。一部の大企業が社員の評価指標としてTOEICスコアを利用し始めました。このことによって、スコア自体が価値を持つようになりました。このことから、とにかく(1)求められるスコアが必要になった人が増えました。と同時に、(2)スコアアップ自体を楽しむ人も増えました。もちろん、体力測定としての機能を失ったわけではないので、(3)測定目的の人もいます。つまり、テストの本質は変わっていないのに、受験者のニーズが変わったのです。』
ここで、著者は言っていませんが、私としては以下のように補足したいと思っています。
このような考えのもとでは「英語を話す」ということは「サッカーをする」「野球をする」ということに言い換えられると思います。
つまり、「走り幅跳び」や「反復横跳び」などの能力は「サッカーをする」「野球をする」ことには基底能力の一部としては機能するが、「走り幅跳び」のスコアがいい人=「サッカーが上手」「野球が上手」とは言えるはずもないということです。
このスポーツの世界ではスコアと「実用力」の因果関係の希薄さは簡単に理解できます。しかし、英語の世界では、大企業の評価という大きな力によって作り上げられたスコア自体の「価値」によってその因果関係が、むりやり擬似的に作り出されてしまったといえるのかもしれません。
著者のスタイルは私と違って、社会的な合意形成を所与のものだとして、それに対して合理的に対処するというものです。
本書の本編は、二人の主人公のTOEICに対するアプローチの物語です。二人とも(1)求められるスコアが必要になった人であることは共通しているのですが、それぞれ(2)スコアアップ自体を楽しむ人と(3)測定目的の人という性格を有し、それぞれ違ったアプローチでTOEICのスコア向上に挑みます。
著者は物語の描き方としてどちらが正しいとも間違いだとも言っていません。前者は、徹底して受験テクニックを極め、スコア向上の結果、課長昇進という目的を達成、後者は過度なテクニックにこだわらずに、純粋に英語知識を積み上げていくことでスコアを向上させ「英語を使う部署への異動」という目的を達成します。
つまり、どちらも目的を達成すればそれは正しく価値のあるものだと考えるのが著者のスタイルです。
それに対して、私はどうしても(2)スコアアップ自体を楽しむ人にはそれは無駄だといいたくなってしまいます。また、(1)求められるスコアが必要になった人については、その社会的な問題を「修正」したいと思い、企業およびその社員に対して彼らがTOEICとの付き合い方が本来どうあるべきかというようなことを訴える活動をしてしまうのです。
その実例の一つが、SEACTテストの創設でもあります。
しかしながら、どちらにしても共通して明らかなことがあります。
それは、TOEICのスコアはスポーツでいえば、「サッカーのうまさの証明」にはなりえないが、「サッカーに必要な基底能力の一部の証明」にはなるということです。
英語もスポーツも最終的な実用力を身に着けるためには「基底能力」は必須です。基底能力があってもサッカーがうまいかどうかは分からないけど、サッカーがうまい人には基底能力があることは明らかだからです。
「TOEICテスト900点。それでも英語が話せない人、話せる人」がいるのは当然ですが、英語が話せる人でTOEIC300点ということはあり得ません。
ですから、私はTOEICを全面否定する「脱」TOEICではなく、「基底能力」を身に着けたかどうかの指標としてTOEICを適切に活用して、「英語を使う」トレーニングにつなげるという「卒」TOEICの考え方が必要だと考えます。
最後に、本書の中で私が秀逸だと思った部分をあげておきます。(一部加筆修正)
『同じ知識を持つ二人のスピーキング力が大きく違うとするとその差は、頭の中の知識をスムーズに外に出す技術の差から生まれます。ですので、その練習をどれだけしたかにスピーキング力は依存します。』
どこかで聞いた気がしませんか?(笑)
文責:代表 秋山昌広