オオカミ少女はなぜ話せないのか
2019年5月31日 CATEGORY - 日本人と英語
書籍紹介ブログにてご紹介した「言語を生み出す本能」から、テーマをいただいて書いていますが、第二回のテーマは「言語が本能ならばなぜオオカミ少女は話せないのか」という問いです。
前回、本書が言語が本能であるという考えの根拠として「脳に内在する文法的能力の働き」を明らかにしたことを取り上げましたが、その時に私の中で思い出した話が一つあります。
それは、小さいころに森の中で迷子になりオオカミに育てられた少女の話です。
彼女が保護されたときに、まったく言語を話せなかったという話を聞いたことがありますが、この事実は上記の考えを否定するものではないかという疑問が私の中で湧き上がりました。
プランテーションの少年が「クレオール」を作り出す力を持っている一方で、オオカミ少女はその力を持っていないということになると思います。
この二つの事象についてどのようにとらえたらいいかという切り口で本書を読み進めていたら、次のような説明を見つけました。
「(クレオールと同じように)手話は多数の子供たちが意思を伝えあうことによって誕生した。つまり集団の産物である。ある一人の子供が外部からのインプットに文法的豊かさをいささかなりとも付け加える現場を見てみたい。」
ちょっと引用が唐突のように見えますが、引用のポイントは「(多数の子供たちが意思を伝えあうことによって生じる)集団の産物である」という部分です。
つまり、「脳に内在する文法的能力の働き」は、「多数の子供たちが意思を伝えあう」という環境があってはじめて機能するものであるということを指摘しているように思えます。
だからこそ、他の子供たちと意思の疎通をはかるという環境を得られたプランテーションの少年は「クレオール」を作り出せたのに対して、他の人間との接触を一切得られない環境で育ったオオカミ少女は、そもそも「文法的能力の働き」をその脳が内在していたにもかかわらず、言語を自ら作り出すことはできなかったということでしょう。
人間は社会的な動物だからこそ、そもそも内在された能力であっても、その社会という環境がなければ顕在化することはないということなのかもしれません。
その社会的存在である人間にとっての幼少の頃の他者との関わりの重要性について改めて思い知らされた気がします。