日本人と英語

いまだに残る「someとany の違い」問題

2022年6月1日 CATEGORY - 日本人と英語

今回は、書籍紹介からのテーマ設定ではなく、私の最近経験したショッキングな出来事からテーマをいただいて書くことにしました。

その出来事とは、私の娘の英語の問題集を何気なく見ている最中に、以下のような記述を見つけてしまったことです。

「ワンポイント解説:『いくつかの、いくらかの』という時は肯定文ではsome、疑問文ではanyを使います。Do you want any pens?(あなたは何本かのペンがほしいですか。)また、anyは否定文では『少しの(何の)~もない』の意味になります。He does not have any pens.(彼は1本のペンも持っていません。)」

私が主宰する「文法講座」を受講される生徒さんのほぼ100%がこのような理解をしているのですが、私はそのような理解の仕方を完全に否定しています。

なぜなら、このことを正しいとするならば、「あなたは少しばかりのパンを食べますか?」と質問したいときに「Do you want to eat some bread ?」と表現でできなくなってしまうからです。

しかし、実際にはランゲッジ・ヴィレッジの「国内留学」ではネイティブ講師からsomeを使用する疑問文が当然にして受講生に対して投げかけられます。

そこで私は講座の中でsomeとany に関して、「some=一部の」「any=全部の」という理解を大前提に置きながら次のように指導しています。

「疑問文や否定文においても当然にしてその大前提を適用すればよく、その結果「一部の」という意味で、someが使用された場合には、部分疑問(少しのパンでも食べますか?)・部分否定(これはケースとしてはほとんどない)となり、「全部の」という意味でanyが使われた場合には全部疑問(どんなパンでも食べますか?)・全部否定(どんなパンも食べません。)となるという一般論で理解をすべきだ。」

多くの受講生が私の指摘に納得するというよりかは、その説明の後に実際のネイティブ講師が使用するのを目の当たりにすることで納得してくれるのですが、私が受講生に「そのような間違った理解はどのようにして獲得したの?」と質問をしても「学校の先生にそう習った記憶がある」と証言するのみで、その証拠を提示してくれと言ってもなかなか具体的なものをあげてくれませんでした。

それはそうです。

私自身そう習った記憶のみがあるだけで、それを明確に記述している参考書などを思い出すことはできないのですから。

それがなんと今回は偶然にも、自分の娘の問題集に明確な「証拠」を見つけてしまったわけですからショックを受けないわけはありません。

そこで私は、この「 someとany 問題」の本質が一体何なのかを真剣に探ることにしました。

「そもそも論」的な鋭い指摘に定評のある三省堂の「ウィズダム英和辞書」で「any」を調べたところ、「疑問文におけるsomeとany」というコラムを見つけましたので以下引用します。

「Do you have any questions?のように、anyは話し手が否定的な答えを予期しているような場合に用いる。一方で、Do you have some questions?のように相手から肯定的な答えを期待、すなわち丁寧なお勧めや申し出をするような場合には、疑問文でもsomeを用いる。」

このように、この辞書の指摘によって明確に「 someとany 問題」に終止符が打たれています。

それなのにも関わらず、なぜいまだに生徒さんのほとんどがこのような「誤解」をしてしまっているのでしょうか。

「ウィズダム英和辞書」はこの「誤解」が形成されてしまった理由に近づくヒントを、「someとany」というもう一つのコラムで次のような解説をしてくれていました。

「someは漠然とではあるが、限られた数量が『ある』ことを表すのに対し、anyは『あるかないか』分からない漠然とした数量を表す。このため、someは肯定文や肯定的な内容を暗示する場合に好まれ、anyは否定文・疑問文・条件文などや否定を暗示する語(avoid deny impossible little difficult hardly  rarely seldom without など)を含む文脈で好まれる。」

つまり、「ある」ことを想定するsomeは、当然にして肯定的な文脈で「好まれる」ものであり、anyは『あるかないか』は分からない、つまり「all or nothing(全てかゼロか)」という私が指摘した「any=全部の」が「あるかないか」いうことで本来は肯定でも否定でも疑問でも使用できるものですが、否定や疑問の文脈での使用が「好まれる」という性質を帯びているということです。

この「好まれる」という性質が受験勉強における試験対策の「効率性」重視の姿勢と結びついてしまって、「絶対だ」という「誤解」につながったものと思われます。

しかしながら、私が自らの娘に対して「それは違うよ」といくら言ってきかせても、「テストに出るんだから余計なことは言わないで!」と返されてしまうのです。(笑)

こんな短絡的な理由によってこれほどまでに大きな「常識(誤解)」が作られてしまうという事実に抗いきれない自分が情けなくなるとともに、受験勉強の計り知れない「闇」を感じます。

 

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