なぜ日本人は毎年ノーベル賞をとれるのか
2017年6月7日 CATEGORY - 日本人と英語
前回に引き続き、「話すための英語力」から印象深かったトピック
「英語を話す方略は日本語を話す方略に準ずる」ということを忘れがちな日本人に対して、非常に分かりやすく説明してくれている部分がありましたのでそのことについて考えてみたいと思います。
本書では、母語の重要性を以下のように指摘しています。
「大学生に英語のスピーチを教えていたころ、支離滅裂なスピーチを何とかしようと指導しているうちに、問題は英語力ではないことに気づきました。そのような学生の多くは日本語ですら自分の意見をきちん説明できないのです。母語で言えないことを外国語で言えるわけがないのです。」
このブログでは、幼児期の教育においての日本語の重要性については何度も指摘しておりますので、読者の多くはまたかと言った感じになるかと思いますが、日本という国のアジアにおける優位性という観点からこの点についての面白い事例をあげていたのでご紹介します。
「日本が、他のアジア諸国と異なり母語である日本語で科学や技術を勉強することができる唯一のアジア国家であること。このことが毎年日本人がノーベル賞をとれる秘密。科学の分野の勉強をする場合に、母語で深く学ぶことが可能であるためにオリジナリティのあるアイデアにつながるのではないか。したがって、母語でしっかりとしたロジックを教える、客観的な文章を理解し、書けるようにする教育が重要だ。(一部加筆修正)」
このことについては、かつてこのブログ記事「フィリピンと英語、日本と英語」でも指摘しました。
そうなると、昨今の潮流である日本の大学で全ての講義を英語で行うということの意義について私たちはもっと真剣に議論する必要があると思います。
ノーベル賞は人類の進歩に貢献する「新しいアイデア」であることを評価するものなので、今後も継続してこの賞を日本として狙っていくのであれば、日本人が、日本語という西洋諸国の言語とは性質の全く異なる言語によって「深く」思考することができるおそらく唯一の言語を母国語としているという事実とその重要性についてあたらめて噛みしめるべきでしょう。
そのために、幕末から明治にかけての我々の先祖が、西欧諸国の書籍を片っ端から翻訳し、日本に存在しない事物や概念をも訳語を新作することで、日本語で多様な分野について学ぶことを可能とした偉業をもっと知らなければなりません。
日本語を捨てて英語を思考の基礎にしてしまうなどという愚行を決してすべきではないのです。
英語は所詮、日本語というその独特の思考の中で発見したものを世界に発信するツールに過ぎないということを再認識すべきです。