日本人と英語

モノの道具的価値と装飾的価値について

2015年12月23日 CATEGORY - 日本人と英語

道具的価値と装飾的価値                

 

 

 

 

 

 

今回も引き続き「英語の害毒」について書きたいと思います。 本書は、いくつもの面白い観点から書かれており、その一つ一つに考えさせられることが多い良書です。

前回の記事では、「日本人にとって英語の発音はそれほど重要性を持たない」という内容で書きましたが、日本人の中にはこのような私の考え方に納得できない人が少なくないと思います。 これは、かなり根強い考え方の違いだと思いますので、今回はこの「日本人の英語に対する性向」について考えてみます。

日本人の多くが「英米(ネイティブ)英語」を学びたいと思う背景にどんな心理があるのかということを著者は以下のように分析しています。

「それは、外国語には道具的価値のほかに装飾的価値があるからだ。ものの道具的価値とは、そのものを使うことによって、利便性が高まるということだ。はさみは、ものを切るのを容易にしてくれる。これらのものには道具的価値がある。一方、ものの装飾的価値とは、そのものを使うことによって、それを使う人の魅力が高まるということだ。イヤリングには、道具的価値は低い。それでもつける人が多いのは、つけることによって印象が良くなると思うからだ。このようなものには装飾的価値があるということになる。日本人は一般的にものの装飾的価値を重視する傾向があるのかもしれない。例えば、日本人には車をいつもきれいに磨いて、傷ひとつない状態で乗りたがる人が多い。車に移動の手段という道具的価値だけを見ているなら、する必要のないことだ。そのような一般的な傾向が日本人に当てはまるのなら、外国語について当てはまってもおかしくない。(一部加筆修正)」

「英語を使って」仕事をしなければならない、もしくはその可能性がある人の数は、グローバル社会の到来が叫ばれる現代でも、実際にはそれほど多くはないはずです。しかも、その必要がある人にとっても、通じることが必要なことであって、「ネイティブのような」発音で仕事をこなさなければならない理由はありません。 しかしながら、そんな日本において、「これからのグローバル社会を生き抜くためには、英語は避けて通れない。しかも、(どうせ習うのなら)ネイティブに習いたい」ということは当たり前のことのように言われています。

このギャップの存在がどれほど日本の英語教育の政策決定に大きな影響を与え、そしてそれを本来進むべきところとは違うところへ誘導してしまっているのか。このことについて、私もその一人だと思っていますが、理性的な英語教育に携わる人間が指摘しているところではあります。 しかし、なかなか、そのことに気付いてもらえない。どうしても、議論がかみ合わないのです。なぜかみ合わないのかを著者は的確な表現で指摘されていました。

「英語の装飾的価値を重視する人たちには、その自覚がないことが多い。英語を学ぶ理由を聞かれたら、『世界中で通じるから』とか『仕事や旅行で役に立つからなど、道具的価値を強調して答える人が多いだろう。『かっこいいから』と答える人はそれほど多くないはずだ。英語に装飾的価値を見ることが悪いことだと言いたいのではない。悪いことなのではなくて、損なことなのである。そして、装飾的価値を見ている人は、損をしていることに気づくこともできない。」

何か課題を解決するためには、その問題に「気づく」ことが第一ステップになります。ですから、「気づかない」のならば、この問題を解決することなどできるはずありません。 日本の英語教育の問題を本当に解決したいのなら、まず、問題の本質にどのようにしたら「気づかせる」ことができるかを考えなければならないことを改めて気づかされました。