日本人と英語

文化と学力の関係

2016年3月2日 CATEGORY - 日本人と英語

文化と学力                

 

 

 

 

 

 

 

前回に引き続き、「日本人にとって英語とは何か」から、今回は「文化」の固有の特質について、タイトルの通り「学力」との関係について書きたいと思います。

前回の「言語」と「数学学力」との関係については本書には非常に多くの記述がありましたが、残念ながら「文化」との関係についてはほとんどありませんでした。 ただ、私個人としてこのことには思うところがありますので、恐縮ではありますが書かせていただきます。

日本の文科省を中心に「大人数制」を推す声の背景には、国際比較ではなく、日本国内の歴史的比較による主張があると思います。

つまり、実体験として、かつては60人学級でも全く問題なく機能していたので、現在の40人学級でも贅沢だという主張です。

しかし、現在ではかつてとは違い、「いじめ」「学級崩壊」等々、問題が山積みです。 かつては60人でも問題なかったのに、いまでは40人でも問題がある。この原因として真っ先に挙げられるのは、教師の指導力不足です。

私も、それを完全に否定はしませんが、それは、間接的な原因に過ぎないと思うのです。

指導力不足の背景にもう一つ大きな根本的問題があることに気が付かなければなりません。それは、教師に対する社会全体の「尊敬」がなくなったことです。

私も教育に携わり、実際に教壇に立って思うことですが、良い授業の大前提は、生徒の「聞く耳」です。 ですから、私は授業において、実際の内容に入る前に、生徒の「聞く耳」を作ることに時間を費やします。

そして、授業の途中でも、「聞く耳」が維持されているかを常に確認しながら進めていくようにしています。 これは何をしているかというと、講師に対する「尊敬」、もしくは生徒と講師の間の「信頼関係」の維持に努めているということです。

そして、特に、学校とは異なり私たちのように短期間しか生徒と講師という関係を持たない環境下では、この「信頼関係」の維持を可能にする人数が10人から多くてせいぜい20人というのが体験から来る感覚的数字です。

かつて、60人学級でも何も問題なく学級運営ができたというのは、家族もしくは社会が、教師に対して「尊敬」の念をもって接しているという全体があったから、生徒も教師との間に、当たり前のように「信頼関係」が成立していたわけです。

この考え方は、儒教の教えに基づくものかもしれません。そう考えると、日本だけでなく、アジアの国々が、多人数学級という劣悪な教育条件であるにもかかわらず、個人主義の徹底した欧米諸国よりも優れた「学力」を獲得することに成功していることの説明ができるようになります。

日本における教育の効果性の問題は、本当の本質は人数の問題ではなく、社会の前提の問題であると思います。ですから、学校と親との間の問題解決に弁護士を準備しなければならないなどといった検討をしているような現状では、学級の人数を減らしたところで、到底効果は見込めるわけもありません。

私は、自分自身の経験から、著者が言う「アジア諸国の『文化』の固有の特質によってもたらされた結果とみるべきなのである。」という指摘を以上のように解釈しました。