文法を会話に結びつける方法
2015年7月29日 CATEGORY - 日本人と英語
以前に書籍紹介ブログにおいて「最初のペンギン」という本を紹介しましたが、本書は外国語習得に関して非常に理にかなった方法を分かりやすく紹介してくれる良書です。
本書の中に、「外国語学習と文法」について非常に納得のいく記述がありましたので、今回はその部分を紹介したいと思います。
美紀:
「文法って、話せるようになるのとは直接的に関係してくるの?」
エリック:
「もちろん!話せるようになるための重要な心がけとしては、新しい文法事項を習うたびに、『自分が日常生活で使いそうな例文』をその文法を使って作ってみることなんだ。実際にノートに書いてね。こうやって外国語の言葉を自分の言葉に置き換える作業を経験していくと会話力がメキメキつくよ。」
少し前に、私はこのブログで「英作文は究極の英語独学法」という記事を書きましたが、まさにこのエリックの言葉は私がその記事に書いた内容と全く同じ重要性について語っています。
日本人はよく「私は文法はそこそこできるんだけど、会話となると全然ダメ。」というような発言をされますが、私はいつもそれを眉唾で聞いています。「文法はそこそこできる」ということの意味合いを「文法をそこそこ知っている」という意味で使っているからです。
「そこそこできる」と「そこそこ知っている」とでは全く違うということを明らかにしなければなりません。
一般的に言って、日本人の言う「そこそこできる」は知識として文法を知っているという意味です。しかも、例外をクイズのように覚えています。「三人称単数現在の場合はs、esをつけなければならない」という事実を頭に入れているだけで、それがどんなインパクトを持っているかなど一切考えもしません。
はっきり言って、「三人称単数現在」など、知らなくても普通にコミュニケーションを図ることができます。私は、文法講座において三人称単数のs,esがない現在形を作った人に対して指摘はほとんどしません。また、それらを意識して間違いのない文章を作った方も一切評価しません。そんなことよりも、すぐさま、疑問文が作れますか?否定文は?そして、その文が受け身になったらどうなりますか?そして、それが比較級を伴ったら?というように、それぞれの文法項目をその必要性に応じて瞬時に組み合わせることに重きを置いてトレーニングします。これによって、一つ一つの例外を知っていることを、「文法ができる」ことと勘違いしている方の「鼻」をへし折るのです。
日本の従来の英語教育において文法教育をしっかり行っていたことについて私はこのブログでも大いに評価しているところですが、不十分ではあります。それは、日本の文法教育が、「例外」の物知りを作ることに終始しているからです。
それに対して、本書で著者や、私の文法教育では、あらゆる文法項目の「原則」を必要に応じて組み合わせたものを「反射」的に口から出るようにすることです。
そして、それが自由自在にできるようになったら、余力で「例外」をやればいいわけです。なぜなら、言葉は、90%以上が「原則」で「例外」は所詮例外に過ぎないのですから。
このように考えれば、英語の「例外」の物知りになるための文法教育を受けてきた多くの日本人から「文法って、話せるようになるのとは直接的に関係してくるの?」という質問が出ても不思議ではないでしょう。
「会話ができるようになるには、当然にして文法が『できる』ようにならなければならない」という当たり前の発言を日本人が普通にできるようにならなければ、いつまでたっても日本人は英語を話せるようにはならないと思います。
ただ、日本人の文法が全く駄目なわけではありません。「そこそこ知っている」のです。ですから、これを「そこそこできる」に変換すること、すなわち著書の言う「外国語の言葉を自分の言葉に置き換える作業」を学習に組み込むことをやればいいのです。