英語の普遍語としての本質とは
2019年1月6日 CATEGORY - 日本人と英語
書籍紹介ブログにてご紹介した「日本語が亡びるとき」よりテーマをいただいて、書いて行きたいと思いますが、第一回目のテーマは「英語の普遍語としての本質」です。
著者は、英語がほかの言語を押しのけて世界唯一の「普遍語」となりつつあり、しかもここまで広く流通すると雪だるま式にさらに広く流通していくことは避けられないという認識を示しています。
それは、英語が通じるがゆえに、多くの人が使い、多くの人が使うがゆえに、より通じるようになるのは必然だからです。
しかし、そのような英語の本質は、世界における唯一の「普遍語」としての存在であって、唯一の「言語」となりつつあるとの誤解は避けなければならないと指摘しています。
著者の「普遍語」の定義は以下の通りです。
「英語が『普遍語』となるとは、英語圏を除いたすべての言語圏において、母語と英語という、二つの言葉を必要とする機会が増える、すなわち母語と英語という二つの言葉を使う人が増えていくことに他ならない。そのような人たちが、今よりはるかに増え、またそのような人たちが今よりもはるかに重要になる状態が、百年、二百年続いたとする。その時、英語以外の諸々の言葉が影響を受けずに済むことはあり得ないであろう。ある民族は、『自分たちの言葉』をより大切にしようとするかもしれない。だが、ある民族は、悲しくも『自分たちの言葉』が亡びるのを手をこまねいて見ているだけかもしれない。」
よく世界で最も多く話されている言語は英語ではなく中国語だという指摘があります。確かに、母国語として利用している人の数は、中国語が13億人以上で、英語は3億7500万人ですので、そのような指摘は妥当のようにも思えます。
しかし、上記の「普遍語」の定義からは、「母語と普遍語という二つの言葉を必要とする機会が最も多い言語」である英語が現時点における唯一の「普遍語」であるという指摘が的を射ているということになります。
そして、このような認識で考えると、英語が「普遍語」としてこれからもどんどん成長していくという環境下においても、「自分たちの言葉」を亡びさせるのか、大切にするのかというのは、それぞれの言語を母国語として使用する人々自身の「決断」次第であるということが明確に理解できます。
言語の「多様性」は、「普遍語」使用による「通用性」「利便性」と共存できるものである、いや共存させるという強い意識をもって維持するべきもの。
すなわち、「自分たちの言葉」を大切にするという意識的な行動によって実現されるものだということが分かる素晴らしい指摘だったと思います。