
自分のも他人のも間違いはよく分かる
2015年3月11日 CATEGORY - 日本人と英語
先日、書籍紹介ブログにて「英語とわたし」という本を紹介しましたが、その中で、NEWS23のキャスターを長年つとめられた故筑紫哲也さんが、日本人の英語をまともにするには「恥をかくことになれる」ことだという主張をされていました。
この日本人の「恥」の概念について以下のように語られています。
「日本人が『あがる』原因は、私たちが『世間』に律せられ、その尺度に身をゆだねているからだと思う。『世間』を気にしながら生きる中で、一番してはならないことは、『恥をかく』ことである。一般に、日本人は自分以外に周りに日本人がいない場合のほうが自由に英語をしゃべっている傾向がある。そばに同胞がいると、それは内なる『世間』を代表しており、その前で恥をかきたくないという心理が働くからだろう。その『世間』は英文法中心の学校教育という『装具』をまとって襲い掛かってくる。文法上、間違ったことをしゃべっていないかと絶えず気にしないではおれない。がんじがらめである。(一部加筆修正)」
このことは、筑紫さんに限らず様々な方が言っていることで、とりたてて珍しいことではありません。しかし、私はこの筑紫さんの発言の中には、一つの重要な前提があると思っています。
それは、『世間』、つまり日本人の多くは、英文法中心の学校教育によって「間違ったことをしゃべっているかどうか」を判断できるレベルにあるという前提です。中国語の初心者が、普通の日本人の前で間違った中国語を口にしたって、「世間」は全く判断の材料を持たないことを考えれば、その通りだと言えるのではないでしょうか。
そうです。多くの日本人は、自分が「発話」するときは、「間違う」くせに、他人の「発話」の間違いをすぐに見つけることができるのです。しかも、他人のものだけでなく、自分が「発話」したものが間違っている事実についてもすぐに見つけることができるのです。
それなのに、「発話」ではどうしてもうまくいかない。それは、自分が「発話」するということは、即座の勝負をするということだからです。
これは、自転車の乗り方を頭で理解することと、乗れるようになることが全く違うことと同じです。では、自転車ではどうするか、それはまず、既に乗れる人からレクチャーを受けたあと、何回も転びながら実践する、ただそれだけです。
ここで言いたいことが、二つあります。
一つは、英語において「恥ずかしがって」発話しないということは、自転車において「転ぶのをおそれて」乗らないということに等しいということです。つまり、日本人には語学習得における誰もが通るべき失敗をするという当たり前のプロセスを忌み嫌っているという決定的な問題があるということです。ですから、私たちランゲッジ・ヴィレッジは、恥ずかしくても「発話せざるを得ない」場所を提供することに徹しています。そうすると、「発話せざるを得ない」ことが当たり前になるので、日本人同士でも恥ずかしさは一切なくなります。
もう一つは、そのような前提があるために、ランゲッジ・ヴィレッジのような環境下では、講師が日本人が会話中に間違いを犯す度にそのことを指摘してはならないというルールを設けていることです。このことについては、弊社のHPにおいて「2.小さな間違いをすることがNGじゃない。会話が続かないことこそNG。」ということをあらかじめ主張しています。
逆に、細かな間違いの指摘が必要だと言うことは、まだまだ基礎力が足りないというレベルにあると認識する必要があります。その場合には、インプット学習で対応するレベルだと考えなければなりません。
多くの日本人の「英語が話せない」という現象の根本原因は、その上のレベルのもののはずです。
このレベルにおいては、「使って(乗って)」「間違って(転んで)」それを自分で「反省」することを繰り返すことが重要なのです。そのためには、できるだけ長く会話を継続することが大切だと言うことです。
これからもランゲッジ・ヴィレッジは、日本人の弱点の本質に直接アプローチするため、「発話せざるを得ない」場所を提供することに徹していこうと思います。