日本人と英語

合理主義と構造主義

2021年11月26日 CATEGORY - 日本人と英語

前回ご紹介した「武器になる哲学」は言語関連書籍ではありませんが、人間の思考と言語、特に単語が含む意味の範囲との関連性について非常に興味深い内容が書かれていましたのでご紹介します。

ちょっとその前に、その内容への導入として「哲学」に対する近寄り難さの源泉でもあるその難解な用語について、その典型例としての「合理主義」と「構造主義」の二つについてみてみたいと思います。

一つ目の「合理主義」とは17世紀にかの有名な「我思う故に我あり」という言葉を残したデカルトが始祖とされ、人間は生得的に理性を持ち、それによって、それは「真理」を探究していこうとする考え方です。

私たちにとってはこれは至極当然の考え方のように見えるのですが、彼がこの考え方を世の中に問うた時にはそれはそれは衝撃だったと言います。

というのも、彼以前のヨーロッパではローマ帝国が滅びて以来キリスト教がすべて「真理」を司っており、人間が自らの理性をもとに自由に真理を探究するなどあり得ないと考えられていたからです。

そのような硬直的な考えを断ち切ろうとしたのがデカルトであり、それが自由に真理を探究しようという「合理主義」のすごさです。

二つ目の「構造主義」は、私たちは真理を探究する際、言葉を用いて思考するわけで、そのこと自体がすでに「言葉」という前提によっており、もはやそれは自由に真理を探究するとは言えないとして、デカルトの「合理主義」の限界を示したものです。

この「構造主義」に大きな影響を与えたのが近代言語学の父と呼ばれるフェルデナンド・ソシュールです。

このソシュールの以下の言葉が、今回の記事で取り上げたい最も興味深いものです。

「フランス語の『羊(mouton)』は英語の『羊(sheep)』と語義は大体同じである。しかしこの語のもっている意味の幅は違う。理由の一つは調理して食卓に供された羊肉のことを英語では『羊肉(mutton)mutton 』と言ってsheepとは言わないからである。sheepとmuttonは意味の幅が違う。もし、語というものがあらかじめ与えられた概念を表象するものであるならば、ある国語に存在する単語は、別の国語のうちに、それと全く意味を同じくする対応物を見出すはずである。しかし、現実はそうではない」

もう少し分かりやすい例を出すとすれば、日本語には「蝶」と「蛾」という二つの語の指し示す範囲は異なるが、フランス語の「パピオン(papillon)」は日本語の「蝶」と「蛾」の両方を含み、一つの語でその両方を指し示します。

つまり、概念はあらかじめ与えられているのではなく、言語がその中で勝手に決めているものであり、語のもつ意味の厚みは言語システムごとに違うということです。

私はこのブログで何度も、「母国語こそが思考の基礎(OS)」であり、「日本人にとっては日本語こそがOSであり英語はアプリに過ぎない」という主張をしてきましたが、私たちはそのOSを使って自由に考えることができるような気がしますが、考える道具の範囲での自由にすぎないようです。

人間の思考というのはそれぞれの母国語の規定する意味の範囲に大きな影響を受けて、「蝶」を好み「蛾」を忌み嫌うという日本人らしさが日本語語によって作られ、どちらも「papillon」で好き嫌いのイメージが明確ではないというフランス人らしさがフランス語によって作られることにつながっているかもしれません。

 

 

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