英語帝国主義とは何か
2014年12月17日 CATEGORY - 日本人と英語
前回に引き続いて、斎藤兆史先生の「日本人のための英語」に関して、もう一点面白いトピックを見つけましたのでご紹介します。
それは、「英語帝国主義」という考え方です。
この「英語帝国主義」という言葉についてはもちろんいろいろなところで使われますので私にも聞き覚えはあります。ただ、その言葉の意味するところということになるとなかなか具体的なイメージが湧きません。
試しに、例によってウィキペディアで調べますと次のようになっていました。
「英語帝国主義とは、現代社会における英語の広範な使用が引き起こしているさまざまな問題を、歴史的な観点から捉えた概念である。」
これでは、あまりにも漠然としていて具体的なイメージなどつかめるはずもありません。ですから、今まで何度もこの言葉を耳にしていてもその意味するところがはっきりしなかったのは仕方がないことかもしれません。
しかし、本書を読むことでこのイメージがかなり具体的になったので、ここでそのイメージを皆さんと共有したいと思います。
以下は、ある日本の企業と英語が母国語である外国人との雇用契約を巡るトラブルについてのエピソードです。
「日本語による契約書には次のように書かれていた。
『雇用期間は1998年4月1日から2000年3月31日までとする。契約期間は日本の年度単位で計算される。すなわち、契約一年次は1999年3月31日、平成10年度末に終了し、翌年度の4月1日に自動更新される。2年の雇用期間満了時に、契約は双方の合意によって更新することができる。』
この企業は外国人職員の枠を2年単位で運用していた。ところが、この外国人職員は一年目の末に仕事を辞めて帰国したいと言い出し、帰国のための旅費を請求してきた。契約書の旅費の条項には、旅費の支給は「契約期間満了時」となっている。契約書の英訳には「on the expiracy of your contract term」となっている。この企業は雇用期間は1998年4月1日から2000年3月31日までとなっているのだから任期満了とは認めず、帰国旅費を支払わないと解釈している。それに対して、外国人職員は、雇用期間は確かに二年かも知れないが、契約書を見る限り「契約期間」はたとえ自動的に更新されるとはいえ、年度末で切れるとしか解釈できないとして帰国旅費を得る権利を主張した。」
かなり、紛らわしい契約書を作ったものだなというのが正直な感想ですが、ここで問題にしたいのはどちらの解釈が正しいかという法律的な問題ではなく、外国人職員が訴えた次のような論理です。
「自分は日本語が読めないのだから、元の日本語の契約書にどう書いてあるかなど知ったことではない。自分は英文の契約書を読んで契約をしただけであり、私のほうが英語の母語話者なのだから、その解釈については絶対の自信がある。」
最終的には裁判に訴えてもいいとまで言いだす外国人に対して、裁判慣れしていない日本企業はついつい及び腰になり、結局、この企業は帰国旅費を支払うという最も軟弱な解決策をとっらざるを得なかったようです。
著者は以下のように言っています。
「英語帝国主義の怖さはここにある。英語は国際共通語だとか、これからの英語の基準を定めるのは非母語話者であるとかいう言葉に騙されて、英語で世界と対等に渡り合えているような気になっていると、どこかで痛い目にある。斎藤秀三郎のように、母語話者に対しても自分の英語のほうが正しいと主張して喧嘩をする用意がないなら、安易な気持ちで英語文化の土俵などに上がらない方がいい。」
この説明で「英語帝国主義」とその恐ろしさについては具体的なイメージがはっきりしました。しかし、私はこの著者の主張は少し極端かなと思います。
私は非母語話者、しかも日本語という英語とは全く土壌の違う語族の言葉を使う日本人はその「違い」を武器にすべきかと思います。世界が英語文化という一つの大きな方向性の中で動いている中で、日本人としての独自性を前面に押し出したり、独自の切り口でものを見たりすることは決して「弱み」ではなくむしろ「強み」でさえあると思うからです。
そして、そのような「独自性」を世界に発信するために英語を「道具」として割り切って捉えればよいのだと思います。ですから、当然にして、その時は「英語文化の土俵」に上がる必要があります。
でも、その際には、「今から他人の土俵に上るぞ」というしっかりとした覚悟をしてことに当たればいいのではないでしょうか。
「英語帝国主義」を過大におそれてチャンスを逃すことも、また過少に評価して飲み込まれることもなく、国際感覚と日本人としての独自性のバランスの取れた国際人を目指すべきだと思います。