日本人と英語

言語の世界観

2015年11月22日 CATEGORY - 日本人と英語

一人称            

 

 

 

 

 

 

 

    前回に引き続き「英語化は愚民化」が提示するトピックについてこのブログで取り上げていきたいと思います。第三回目の今回は、「言語の世界観」に対しての考察について書こうと思います。

私は、ランゲッジ・ヴィレッジの番外編で「中三文法を二泊三日で血肉にする合宿講座」というものを定期的に行っています。この講座は、文字通り会話に必要な文法を全て二泊三日で身に着けさせるという内容です。 この講座を教えていてつくづく思うのは、仮に「日本語の文法を二泊三日で血肉にする合宿講座」を作ってほしいという言われた場合、それは絶対に不可能だろうなということです。 その理由については、本書の次の部分を引用することで明らかにしたいと思います。

「日本語と英語などのヨーロッパ言語では、話しては異なった自己認識を迫られる。日本語の一人称は『私、俺、僕、自分、わし、手前、小生』などたくさんある。また、二人称を指す語も『あなた、キミ、お前』など数多い。このように、日本語では会話の中で人称を状況に応じて、うまく使い分けなければならない。他方、英語などのヨーロッパ言語は、自分や相手を指す語はとても限られている。せいぜいそれぞれ一語か二語ぐらいしかない。英語の一人称はIのみだ。」

日本語が、一人称ひとつ取っただけでも、こんなにいろいろ変化してしまうわけですから、構造的に教えることなど「できっこない!」と叫びたくなってしまいます。(笑)日本語を学習する外国人の方に同情せざるを得ません。 そして、そのことは以下のような言語の世界観を表していると言います。

「これは、英語の世界観では、常に自分が出発点、あるいは基準点として、そこから周囲を認識するというものの見方になることを示している。自分がまず揺るぎなく世界の中心に存在していて、そこから他者や周りの状況を規定していくというわけだ。日本語の世界観は異なる。日本語では状況に応じて適宜、自分を指す言葉を柔軟に使い分けなければならない。自分の周りの状況を先に良く知り、その後、そこでの自分が認識されるという順番となる。つまり、日本語の世界では、自己は常に状況や他者との関係とのかかわりで規定され、認識されるのだ。」

こう考えてみると、いわゆる帰国子女は本当に大変だと思います。外見はどう見ても日本人然しているのに、上記のような世界観を持ち合わせていない状態で、「帰国」しているわけですから。こちらについても、同情せざるを得ません。 自分自身の認識まで違ってしまうくらいに世界観が異なる日本語を使っていた日本人がその日本語を捨てて、英語を思考のベースとするなどというようなことは、日本人の創造性や自己同一性にとてつもなく大きな影響を与えることになることは明らかですし、決してやってはいけないことだということだということが良く分かります。