日本人と英語

「言語が思考を規定する」は誤り?

2019年6月2日 CATEGORY - 日本人と英語

書籍紹介ブログにてご紹介した「言語を生み出す本能」から、テーマをいただいて書いていますが、第三回のテーマは「言語が思考を規定する」という考えの最終的な真偽についてです。

私は、本書を読む前まではかなり強硬な「言語が思考を規定する」論者でしたが、本書を読み進めるうちに少しずつ、その反対論の論理も理解できるようになってきました。

今回も、強硬な立場からある程度理解を示すことができるように私を変化させるに至らしめた「言語は人間の本能」論の根拠として以下の指摘を挙げたいと思います。

「考えてみてほしい。何か言ったり書いたりしている時、どうもこれは自分が本当に言いたいことではない、という気がしたことはないだろうか。そう感じたからには、自分が口にしたこととは別の『言いたかったこと』があるはずである。それを巧く伝えられる言葉を探すのが難しいことも少なくない。また、何かを聞いたり読んだりしたとき、私たちの記憶に残るのは正確な言葉そのものではなく、主旨だけである。つまり、単語のつながりとは別の『主旨』が存在することになる。それに、思考が言語に依存するとしたら、新語が誕生するはずはない。子どもは言葉を覚えられないはずだし、ある言語から別の言語への翻訳も不可能なはずである。言語が思考を規定するという説は、皆が一斉に疑問を棚上げにしない限り成立しえない。」

とかく研究者はすべてを完全なモデルにしたがりますが、彼らの研究結果に触れるのは私たち一般人です。

経済学における人間のモデルが「(完全に)合理的な人間」とされているために現実の経済を説明しきれないように、この「言語が思考を規定する」論争についても同じことが言えるように思うのです。

考えてみれば、本書を読む前の私は、「言語が思考を規定する」論者と自認していましたが、私自身それは私という存在をすべて「言語が思考を規定する」論者として認識していたわけではありません。

物事を考える手段として、「言語」が物事の理解に関して有効に機能しているという手ごたえを感じているという意味で自認をしていたのです。

その「言語」が別の『言いたかったこと』をとらえることができないケースがあることをもって、「言語が思考を規定しない」ということを絶対視しないという立場をとっていただけです。

ですが、逆も真なりで、今回取り上げた本書の指摘のような捉え方にも、素直に「なるほど」と思えるのが私という存在なのです。

つまり、それは、「規定」という言葉を使うのではなく、「影響」という言葉に変えて表現すべきではないかとするレベルの理解にとどまっているということだと思います。

本書を読むことで、このどちらの論からも自分自身の思考に影響を与えるような新しい視点を得られたと感じています。

 

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