日本人と英語

外国語教育から見た日本敗戦原因

2016年10月30日 CATEGORY - 日本人と英語

海軍と英語

前回に引き続き、「英語と日本軍」から「外国語教育から見た日本敗戦原因」というテーマを取り上げて見たいと思います。

前回の記事の最後で「日本陸軍と海軍とを比較すると、陸軍は圧倒的に英語に対する姿勢が消極的なのが明らかで、太平洋戦争勃発後の発言権を持ったのが陸軍であると考えると、その姿勢が日本を窮地に追いやった要因の一つだといえる」という指摘をしました。

本書には、陸軍がそのような姿勢を持つに至り、その姿勢を最後まで改めることができなかった理由が分かりやすく書かれていましたのでこのテーマについて考えてみたいと思います。。

話は、開国前後の明治時代にさかのぼりますが、佐賀藩はイギリス式、水戸藩はオランダ式、高知藩はフランス式といった具合に各藩によってばらばらだった軍隊を維新後は軍政の統一を急ぐ必要がありました。

その結果、陸軍はフランス式、海軍はイギリス式を採用することが正式に決定されました。当時、フランスが陸軍大国、イギリスが海軍大国であったこともあり、士官養成学校における最重要外国語はそれぞれフランス語と英語という形になりました。

その後、1870年の普仏戦争でプロイセン(ドイツ)がフランスに勝利したあたりから、陸軍においてドイツ語の優位性が進んでいきました。これには、あわせて、共和制であるフランスに対して、プロイセンは君主制をとっていたことから、天皇制を強化したい日本の思惑とも一致したと思われます。

その結果、陸軍における軍制が全面的にドイツ式に改変されていき、海軍における軍制はイギリス式が継続されるという形になりました。

このような流れの中で、文部省においては、多数の外国語を分散して教育するということは財政上大きな負担となることから、英語を中心とした形へと移行していったことから、一般学制および海軍については、英学本位主義となり、陸軍においてのみ、ドイツ語・ドイツ学(フランス語も)偏重の気風が温存されるということになりました。

ドイツ語・フランス語重視の姿勢を変えようとしなかった陸軍は、文部省が英学本位をとったため一般の中学校とは別に、ドイツ語・フランス語で学ぶ幼年学校を独自に設置する必要が生じました。そのため、ドイツ語を学んだ幼年学校出身者が主流派、英語を学んだ一般中学出身者は傍流というようないびつなエリート意識を生み出す結果となりました。

このことは、語学の固定化・派閥化は世界情勢の変化に応じた柔軟性を欠き、アメリカイギリスの勢力拡大にともなって、大きな問題となっていきます。

敵国の言葉を知る必要性が差し迫ったものとなった太平洋戦争開戦直前の1938年に、ようやく陸軍は幼年学校において英語教育を開始しました。しかし、現実には時期があまりにも遅く、敵国研究のための外国語教育としてなんの効果もあげることなく敗戦を迎えることとなりました。

この点について、終戦後アメリカ軍は次のような分析をしています。

「日本陸軍の指導者は、ドイツが勝つと断定し、連合国の生産力、士気、弱点に関する見積もりを不当に過小評価してしまった。軍幹部のドイツ語専修者らが、ナチスドイツに幻惑され、イギリス・アメリカの実力を甘く見たのである。」

もちろん、陸軍内部にも英語の専修者はおり、陸大卒業後アメリカやイギリスに留学して、英米事情を把握していたものがいましたが、彼らは全体の二割に過ぎず、一般中学校出身者でもあったため冷遇されていました。陸軍の中枢は、幼年学校出身のドイツ語・フランス語専修者によって占められていたというわけです。

「幼年学校からドイツ語を通じてはぐくまれた親ドイツの考えを持った陸軍の意思決定は、もはや理論ではなく、感情に他ならなかった」という証言があるほど、この風潮は明らかなものであったようです。

言語というものが、「ツール」から「思考」に昇華し、最終的には「感情」まで司ってしまうという恐ろしさを感じました。

一方で、海軍においては海軍兵学校校長であった井上成美(冒頭の写真)は、戦局が厳しくなるにしたがって海軍兵学校における年限短縮と軍事学重点化が求められるようになったことに反対し、英語を含む普通学に比重を置いたということで有名です。

彼はこの判断の真意を、戦後になって次のように教え子たちに語ったと言います。

「戦争だからと言って早く卒業させ、未熟のまま前線に出して戦死させるより、立派に基礎教育を今のうちに行い、戦後の復興に役立たせたいというのが私の真意でした。しかし、当時敗戦のことなど口に出して言えるものではありませんでしたし、また言うべきことでもありません。」

改めて、教育の重要性を認識した次第です。