
赤ちゃんの言語習得について
2025年8月28日 CATEGORY - 日本人と英語

外国語の習得プロセスにおいては、赤ちゃんのプロセスと大人プロセスは全く異なるため、これを混同してはいけない。
これは、外国語習得に関するサービスを提供する側にとっては何よりも重要なポイントなのですが、日本においてはそれを理解していない(いや、理解していてもマーケティングの誘惑にかられて無視している)提供企業と、それに飛びつきたい学習者が少なくないことで、その効率性と効果性に大きなマイナスを生じさせています。
それについては、私は自らの主張を以下の動画(12:10~21:27)を作って公表してきましたし、
以前に出演したABEMA PRIMEにおけるパックンの主張(10:15~12:16)でも明らかにされています。
この絶対的に重要な違いに関する、特に「赤ちゃんが外国語を習得する」プロセスについて、非常に丁寧に言及している箇所が、先日、代表ブログでご紹介した内田樹氏の「先生はえらい」という書籍の中にありましたので、以下、少し長くなりますがそのまま引用したいと思います。
「子供が母国語を学習する時のことを考えてください。子供は『ことば』というものがなんであるかをまだ知りません。『僕もそろそろ学齢期だから、日本語をちゃんと勉強しておかないとね』というような合理的判断を下した上で母国語の学習を始めた子供はおりません。自分に向かって語り掛ける母親のことばを聞いているとき、子供はまだことばを知りません。しかし、すでにことばによるコミュニケーションの現場に引き出されています。子供は彼が生まれる以前に成立した言語に絶対的に遅れています。言い換えれば、子供は『すでにゲームが始まっており、そのゲームの規則を知らないままにプレーヤーとしてゲームに参加させられる』という仕方でことばに出会うわけです。にもかかわらず、子供はやがて人々の語ることばの意味を一つ一つ発見してゆきます。それは、大人たちが『ことばには意味がある』ということを教えたからではありません。ある音声が何かそれとは違うものを記号的に代理表象することができるという『ことばの規則』そのものを知らないままに、子供はことばの中に投げ込まれているから、知るわけないんです。このプロセスの驚嘆するべきところは、規則を知らないゲームをしているうちにプレーヤーがその規則を発見するという逆説のうちにあります。周りの人々の発する音声が意味を伝える記号であることが分かったのは、意味不明の音声について、『これは何かを伝えようとしているのではないか?』という問いを子供が立てることができたからです。この謎めいた音声は何かのメッセージではないのか?これらの記号の配列には何らかの規則性があるのではないか?これがすべての学びの根源にある問いかけです。学ぶことの全行程はこの問いを発することができるかどうかにかかっています。そして、『そうすることであなたは何を伝えたいのか?』という起源の問いは問うもの自身が発する以外にはありません。誰も彼に変わって、この問いを発することはできません。私が『学びの主体性』と呼ぶのはこのことです。」
「先生はえらい」の記事の中で私が言及した
「冒頭の私の『先生』の定義は、『学校の教師であったり、塾の講師であったり、はたまたビジネスセミナーの担当講師であったり、知識や技能を伝授してくれる人』でした。一方で本書における『先生』の定義は、『出会う以前であれば『偶然』と思えた出会いが出会った後になったら『運命的必然』としか思えなくなるような人』というものでした。」
この二つの「先生」の定義の違いから、学ぶ側の負担には大きな違いが生じます。
前者(知識や技能)は、先生から「分かりやすく」教えられることが可能であるのに対して、後者(謎)は、自分自身が主体的に悩みに悩む自らの経験から導き出すしかないという違いです。
赤ちゃんは、未だ言語を習得しておらず、言語を「知識や技能」として習得する術がないので、母語習得は「謎」を解き明かす長く苦しいプロセスによってのみ可能で、それは生きていくために避けて通ることはできないので、誰もが否が応でも大人になる間にやり通すことになるのです。
しかし、大人は、すでに言語を習得しているので、次に習得する外国語は、もはや「謎」ではなく「知識や技能」として習得することができるというわけです。
つまり、大人は言語に関しては大幅なショートカットができるということ。
ただそれだけでなく、すでに言語を習得してしまっているわけなので、赤ちゃんと違って逃げ出すことができてしまう以上、ほとんどの人が「謎」の解明プロセスをやり通すことができないのです。(もちろん時間もないし)
このように、「運命的必然」を引き起こさないと「えらい先生」には出会うことはできない以上、大人は言語に限らず、「謎」の解明プロセスには不向きであるという致命的な短所を持ってしまっていると言わざるを得ないのです。
だからこそ、大人が外国語習得に際して、このショートカットを放棄することには何らの合理性もありませんし、それ以外の選択肢がないことを理解することが大前提となるのです。









