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それで何をしたいのかを考え教育する

2018年8月13日 CATEGORY - 代表ブログ

皆さん、こんにちは。

先日(2018年8月1日)、ヤフーニュースを見ていましたら、次のような少気になる記事のリンクを見つけましたのでこのブログで共有したいと思います。

「『桃が5個あります。3個もらうと全部で何個になりますか』という、一見簡単そうでも解答に困る算数の文章題がTwitterで話題となっています。桃がどこから誰へ移動しているのか、文章が不明瞭でどうとでも解釈できてしまう。投稿主は一連の設問に対し、『主語は常に自分』として、『残りは何個』と聞くものは引き算で解き、『全部で何個』と聞くものは足し算で解くといったルールがあるのだろうと推測。それでも、その推測は出題者への忖度なのでは? と、疑問を投げかけています。」

この問題は、算数の問題です。

仮に、この問題に不備はなく、『主語は常に自分』として、『残りは何個』と聞くものは引き算で解き、『全部で何個』と聞くものは足し算で解くといったルールがあるとしたのであれば、算数という教科では、算数を扱う場合の日本語にはそのような前提があるのだということをきちんと教える必要があるはずです。

しかしながら、少なくとも私はそのようなルールを教わったことはありません。

ならば、何をもって『主語は常に自分』と言い切れるのか、また残りは何個かが引き算を意味するというのは百歩譲って問題ないとしても、全部で何個かが、必ず足し算を意味すると言い切ることは明らかにできません。

引いた結果残っているのは全部で何個?という日本語を決して否定することはできないからです。

今、2020年の大学入試改革に向けて、「正解不正解」を一方的に問う問題ではなく、思考力論理力構成力を問う問題への変革が求められています。

そのような中、いつまでも教える側が、このような勝手なルールを押し付けるだけのスタイルをとっていることに疑問すら持てないようですと、結果は「笛吹けと踊らず」となることは明らかでしょう。

今回、5-3=2と答えた生徒さんは、「もともと5こあるももは誰のなの?」という実に真っ当な論理に基づく疑問を提示したのです。

学校側のあるべき対応は、まさにその子の提示を、クラス全体の思考力論理力構成力を鍛えるための絶好のツールとして扱うことあるはずであって、決して訳のわからないルールを押し付けることではありません。。

言葉は本来明示的に伝えるためのツールのはずです。

その言葉が明示的でない場合に、忖度をもとめるのか、それともより明示的であるべきだと問題提起をすることを求めるのか。

「これからの教育」を施す前にまずはこのことを考えるべきです。

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