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元号と西暦の併用の是非

2019年1月7日 CATEGORY - 代表ブログ

皆さん、こんにちは。

2018年年末のブログ記事に私は天皇陛下の平成最後の誕生日会見を取り上げ、そのお言葉に感動し、「日本に皇室があって本当に良かった」と思える体験をしましたと書きました。

そんな私ですが、「元号」の存在については、その使用者として少なからず不満を感じていることは事実です。

この不満は、私が「外国語」に関する職業についていて、外国人とのやり取りの中で西暦と日本の元号の違いが現実の不都合として感じられる機会が多いから感じるものなのかもしれません。

これは、ドルと日本円の換算にいちいちなやむ日本の国際ビジネスマンの不満と根っこを同じものですが、前者は相手があることなので仕方がないけれども、これは国内だけの問題ではないかということに、その不満を大きくする原因があるのではないかと思います。

この「元号と西暦の併用」問題について、哲学研究者である内田樹氏が自身のブログ「内田樹の研究室」で面白い視点から語られていましたのでその部分を引用してご紹介したいと思います。

「元号を廃して、西暦に統一しようというような極端なことを言う人がいるが、私はそれには与さない。時代の区分としての元号はやっぱりあった方がいい。そういう区切りがあると、制度文物やライフスタイルやものの考え方が変わるからである。元号くらいで人間が変わるはずはないと思うかもしれないが、これが変わるから不思議である。私の父親は明治45年生まれで、その年の7月で明治は終わるので父は「半年だけの明治人」だったが、「明治男の定型」を演じるために無意識の努力を全生涯を通じて続けていたように思える。「大正デモクラシー」も「昭和維新」も元号が付いていたからこそ同時代人にはリアルに思えたに違いない。元号というのは尺貫法みたいなものだと思えばよいのではないか。メートルとグラムが世界標準なんだから、それに合わせろというのも確かに合理的な考え方ではあるが、やはり酒を飲むときは「二合徳利」とか「一升瓶」という数え方でないと酒量が計れない。こういう度量衡はそれぞれの集団の歴史的経験の中から出てきたもので、一朝一夕に捨てることはできない。世界標準とは別にローカルな度量衡が並立していることを私はそれほど不合理な話だとは思わない。むしろ度量衡が複数存在しているという事態を多様性の発露として言祝ぐ(ことほぐ)くらいの雅量があってもよろしいのではないか。(一部修正)」

なるほど、と思える部分と、それでもやはり不便に基づく不満が残ってしまう部分が混在しているように思えるのは私だけでしょうか。

私が「日本に皇室があって本当に良かった」と思っていることは事実ですし、その皇室と元号は切り離すことはできないことも理解をしています。ですから、「元号を廃止してしまえ」などという主張には私も与するものではありません。

元号を宮中の中では、大切に維持するべきかと思います。ですが、我々の社会生活の中で、西暦と元号を混ぜて使用することの是非としてこの問題をとらえてほしいという気持ちも同時にあります。

そこに、この記事を読んで、もう一つ「元号」の実質的な意味合いに気づかされたような気がします。

現在の中高生が、「昭和っぽい」などという表現をして、自らがその昭和を経験していないのに、その「っぽさ」を昭和の経験者と共有しているのはまさに、この内田氏がしてきする「元号」の実質的な意味合いだと思います。

これは、西暦では決して不可能な芸当だと思います。

ならば、宮中の中で大切に維持する「元号」と社会の中で一般的に使用する西暦との出会いを継続して演出する仕組みを作れば、その実質的意味のいいとこどりをすることができるのではないかとふと思いました。

例えば、毎年元日を元号でお祝いする、そして5年、10年という周年をその元号でお祝いするなどです。

これがまさに、引用の中にある「言祝ぐ(ことほぐ)」という難しい言葉を現実に実行することであり、逆にそうすれば、せっかくの元号に対して、その不便性をもとに「元号を廃止してしまえ」などというような極端な考えを持つ人もいなくなるのではないかとも思うのです。

そんなことを書きつつも、あと数か月で新しい「元号」となります。

是非、いい気持で新しい元号をお迎えしたいと思います。

 

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