学者の悩み
2016年3月13日 CATEGORY - 代表ブログ
皆さん、こんにちは。
先日、書籍紹介ブログで「英語学とは何か」をご紹介しました。
記事の中でも書きましたが、非常に難解で結局チンプンカンプンでした。
ではなぜ、この本を書籍紹介ブログに載せたのか?
それは、チンプンカンプンながら、その中に非常に印象に残った部分があったからです。
それは、この著書の内容ではなく、あの「英語大論争」の渡部教授が寄稿された部分です。 その部分を紹介する前に、少しだけ私の個人的な話をさせてください。
私には高校時代の後輩に大変優秀な二人の学者がいます。一人は「シェークスピア(仮)」を専攻する英文学者、もう一人は「森鴎外(仮)」を専攻する国文学者です。
彼らは中学高校時代からとびぬけて優秀でした。当然のように、大学もストレートで東京大学に進みました。
そして、各々の専攻を上記のように定めました。(仮)としたのはあまりにマイナーな作家だったため、私が名前を忘れてしまったためです(笑)。
それ以来、私は彼らに会うたびに何度も「なんで、そんなに能力が高いのに、シェークスピア(森鴎外)の研究なんてするの?その時点で、もうシェークスピア(森鴎外)を超えることができないことが決定しちゃうじゃん。」という、とても彼らにとっても、シェークスピア(森鴎外)にとっても失礼な質問をぶつけたものです。
ですが、私の言いたかったことはまさに、この寄稿文の中で渡部教授が吐露した感情だったのです。このことをうまく表現してくれていると感じ、すごく印象的でした。ちょっと抜き出してみます。
「文科で学問に志した人間には、最初の研究に一区切りがついたとき、『この調子でいいのかな』という疑念が生ずるはずである。彼らは、どこかに『専門』を決めなければならない。一応エリザベス朝の時代の英文学とする。この時代には大小多数の詩人や劇作家がいるが、例えばシェイクスピア一人を取り上げただけでも大変な代物なのだ。(中略)シェイクスピアの作品のそれぞれには山のような研究がついていて、全作品の研究には初めから手出しはできないので、悲劇に限るとする。それでも、とても駄目なので、ここでうんとテーマを絞ることにする。それで、『ハムレットと幽霊』にするとする。ところが、これまたこの研究をした人がこれまでなんと多かったことか、ということにすぐに気づく。こんなことで20代はくれてしまうということにもなりかねないのである。」
私の心配は、「シェークスピアを超えることができない」でしたが、ここではその、「シェークスピアを研究した人さえ超えることができない」という悩みと戦うことになっているようです。
つまり、近代の学問は「専門化」が進み過ぎて、文学を志した者は、博くものを知っているから博士ではなく、博くものを知らないから博士という、矛盾に悩まなければならないということです。 渡部教授ご自身もこのことに悩まれたそうですが、この悩みから若い頃の教授を救ってくれたのが、本書だったのだそうです。
教授は本書の中の次の部分を読んで、目の前がぱあーと明るくなったと言います。
「(文献)学者は皆自己の専門学科においては一流であり、他の学問においても二流、すなわちBetaでなければならぬ」
これは、自分の小さいテーマ研究のほかに関連分野の理解も不可欠であり、本書の著者である中島氏を含めた大きな実績を達成するような学者は皆、そのバランスを達成しているということを理解したということが、以下のコメントで分かります。
「この中島先生の論文を読み終わったとき、私の人生に今まで起こった内で最も大きな感激の一つとして記憶しているものが起こった。そして、研究分野を狭くしていく近代的学問の必然的運命と、博学という人文学の本質にかかわる要請という相反する方向に働くかの如く思われたものが、見事に解決されているのを知ったのである。」
どこまでも狭く行きがちな専門分野の研究を、二流でいいから周辺に目を向ける余裕を持つことで、全体を俯瞰しながらより深めていくという姿勢を持つことの大切さをこの「英語学とは何か」は教えてくれているようです。
私は残念ながら、本書を読むことでここまでの理解には至りませんでした。
しかし、私の二人の後輩は、私があのような失礼な質問をするたびに「自分は研究者という仕事を選んで幸せ」だとそろって言っていたので、おそらくこの悩みは渡部教授と同じような理解がなされていたのだろうなと思いました。