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新約聖書を知っていますか

2024年12月25日 CATEGORY - 代表ブログ

皆さん、こんにちは。

私は、中学高校とカトリックのミッションスクールに学び、入学式や終業式などの式典の時には「聖書朗読」というものに触れてはいましたが、そのような細切れかつ非常に分かりにくい唐突な文章に、却ってこの書物への興味が失われ、結局在学6年間一度もこの書物について詳しく知る機会を得ずに終わってしまいました。

しかし、このブログで阿刀田高の世界の宗教の「聖典」を易しく読み解くエッセイシリーズの「コーランを知っていますか」そして、「旧約聖書を知っていますか」をご紹介して、その分かりやすさに感動して、その機会とするべく今回は「新約聖書を知っていますか」を読んでみました。

本書の印象を書く前に「新約聖書」に関する概要説明をしておきたいと思います。

そもそも「旧約聖書」と並んで「新約聖書」は、キリスト教の聖典の一つであり、ユダヤ教の聖典でもある「旧約聖書」(純粋にはユダヤ教の聖典は『タナハ』と呼ばれ完全には一致するものでない上に、この呼び方自体はキリスト教側のものでありそもそもユダヤ教はそれを認めていない)を「上巻」とすれば、「下巻」に相当するものです。

そして、「旧約」とは、神と人間(イスラエル人)との古い契約の意味であり、「新約」とは、イエス・キリストによって神との契約が更新されたという意味です。

「新約聖書」は全27書からなり、すべてイエス・キリストの信者たちによって書かれたもので、大まかに以下の四つに分けられます。

◆福音書(福音とは『良い知らせ』のことつまり、イエスのメッセージの意味):マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネによるイエスの生涯、死と復活に関する記録

◆使徒言行録(歴史書としての意味):イエス・キリストの死後の初代教会のキリスト教会の初期の記録

◆書簡(手紙):パウロ・ペトロ・使徒ヨハネ・使徒タダイによる初期のキリスト教思想がどのように発展していったかをうかがい知ることができる内容

◆ヨハネの黙示録:この世の終末と最後の審判、キリストの再臨と神の国の到来、信仰者の勝利など、預言的内容が象徴的表現で描かれた使徒ヨハネによるキリスト教徒に激励と警告を与えるための内容

本書も以前の二冊と同様非常に分かりやすいというのが第一印象だったのですが、今回においては始めからこのエッセーの分かりやすさの源泉は何かを探りながら読むことにしました。

「新約聖書」が特に信者以外の人にとっては、やはり聖母マリアの処女受胎やキリストの復活など人間の力を超越したいわゆる「奇跡」をどうとらえるかが最大の問題であり、とっつきにくさの原因になっているだろうと思われます。

これについて著者の次のような見解が私にとって非常に納得感をもって受け入れられたので以下引用します。(一部加筆修正)

「イエスはどういう人だっただろう。信仰を持たない私の勝手な推論を許していただきたい。イエスは少しずつ神の子になったのではあるまいか。と私は思う。イエスは言ってみれば宗教の天才ではなかったか。生れ落ちてしばらくはその才能もそう顕著には表れまい。ただの賢い子供だったろう。当人も意識しなかったろう。成長とともに、形而上学的思想、雄弁術、人類愛など後のイエスの特徴となるものへと知らず知らずのうちに青年イエスの心が傾き、いつの間にかその色合いを帯び、やがて意図的にその色を濃くするようになる。イエスにとっては洗礼を受けた時が一つのけじめだったろう。自分の使命を感じ、一生をその道に託そうと考えた。福音書をよむと全体の印象として、少しずつ少しずつ弟子たちの前に自分の神性をあらわにした気配がある。そうしなければ弟子たちに神性という異常なものを伝えられないから。そうした中で人々は彼を預言者として扱い、彼自身の中にも『私は神の使命を受けたものかもしれない』という確信へと変わり、彼が手を触れた人の病が治ったりする『偶然』が奇跡となり、そのうわさが広まれば広まるほど心因性の病気を治すのに役立つだろう。また、湖の浅瀬をただ歩いただけなのに水上を歩いたこととして伝わってしまう。結果、彼自身もある種の確信と自己暗示を得てさらに自分でも驚くほど見事に病人を治してしは神の子だ』とさらに確信し、その証明のために十字架にかかり、死後に復活することまで思い至るようになる。私の想像は伝統的なクリスチャンには耐えがたいほどの妄想に移るだろうが虚心に聖書を読んでいると私にはそんな風に感じられてならない。」

著者は自ら「勝手な推論」として伝統的なクリスチャンたちに遠慮しながらこの文章を書いていますが、私は著者のこの推論が決してイエス・キリストの「神性」に傷をつけるようなことにはならないと思いました。

というよりは、そもそも「神性」というものはこういうものなのかもしれないと非常に大きな「納得感」を得ることができたのです。

聖母マリアの処女受胎によって生まれた「神の子」が一度死んで生き返ったなどということを何の批判的精神もなく受け入れるよりは、このような形でイエス・キリストという一人の天才が、決して自分や他人を騙す意図をもってではなく、本当の意味で自身を「神の子」と信じ切り、人々もそれを信じたことによって「神性」がそこに表出したと。

これは、1996年の「ローマカトリック教会の進化論容認」と同じような意味合いを持つと考えられ、こちらの方がずっと「世界宗教」であるキリスト教の理解としては健康的なものではないかと思うからです。

 

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