社会のゆとりは国家の格
2016年9月28日 CATEGORY - 代表ブログ
皆さん、こんにちは。
先週、話題の「シン・ゴジラ」を見てきました。そして、偶然ですが、その翌日(2016年9月18日)の読売新聞朝刊一面の「地球を読む」というコラムに政治学者で東大名誉教授の御厨先生のこの映画に関する意見が出ていました。
現時点で公開中の大人気映画ですから、あまりネタバレしてしまってもいけませんので、このコラムで明らかにされている範囲でこの映画の内容を書きます。(といっても、このコラムはこんなにいいの?と心配してしまうくらい詳説していましたが。)
「冒頭、巨大不明生物が突然東京湾出現する。この時点で早速、政治はこれを「生物」として認めるかどうかで空回りをはじめる。唯一、現実に対峙しようとする若き官房副長官矢口のみが、その混乱と停滞を打破しようとするが、各省庁のタテ割りの壁が立ちはだかる。ゴジラの成長とともに、状況は悪化の一途をたどり、首相をはじめ政権幹部が次々と死亡し、偶然の継承順位で明らかに無能な政治家が首相臨時代理を命じられた結果、矢口の要求が下剋上的に通るようになる。日米安保に基づいて米国の協力を得るが、米国は問題の世界的拡散を避けるために、日本人の安全を無視し、先制攻撃を仕掛けようとする。他方、矢口たちは日本人がゴジラと「共存」することを覚悟した独自の対ゴジラ作戦を進める。」
このように、「シン・ゴジラ」は今までの子供向け娯楽作品のゴジラシリーズと全く異なり、完全な大人向けの政治映画となっています。
しかも、福島第一原発事故を含む東日本大震災を経験した日本人にとっては、非常にリアルな問題として捉えることができることが、ここまでの人気の理由ともいえると思います。
今回のこのコラムにおける御厨先生のコメントは、映画「シン・ゴジラ」があぶり出した(東日本大震災の時もあぶりだされてはいましたが、実際には解消されていない)日本の非常時の危機対応について非常に分かりやすく解説を加えてくれているものでしたが、以下の点において印象的でした。
それは、「災害をすべて予防し克服することはできない」つまり、「ゴジラとの共存」を選択せざるを得ないことが明らかな国の政治体制としては、社会にゆとりを持たせるような懐の深いものでなければならないという視点を以下のように述べられていたものです。
「(未知の問題解決のために)政治家、官僚システムから疎外され除外された異端者、変わり者たちが各界から呼び出される。彼らは自分のオタク的興味でもってコトにあたる。あたかもゲームを楽しむかのように。そこに国家は意識されない。さらにここでは、肩書と上下関係は無用だ。人材は育てられるものではない。その社会がどれだけ異端者を抱え込むゆとりを持っているか否か、そのノリシロの大きさこそが必要なのだと分かる。」
まさに、社会のゆとりは国家の格という視点は必要なのだと強く感じました。
そのためには、社会として異端者や変わり者を除外するのではなく、このような人たちが社会に抱え込まれやすいような教育体制を整えることが、最終的に、「この国もすてたもんじゃない」と思えるようなしなやかな政治体制にもつながっていくのだと思いました。
まったく新しい防災訓練的映画の登場といった感じです。
世の中、エンターテイメントの切り口はまだまだいくらでも出てくるのですね。