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神は死んだのか
2017年5月28日 CATEGORY - 代表ブログ
皆さん、こんにちは。
私は、大学二年生の一年間、アメリカ、ボストンに留学しました。
そして、その留学生活を通じてアメリカに対して抱いた感情は、その多くがポジティブなものでした。
本質を捉えることの重要性や、人と違ったことをすることを素晴らしいと思う感覚などがそうですが、一点、宗教に対する考え方については、?と思うことが多かったです。
それは、「キリスト教」というものを絶対視しすぎる姿勢を多くの人が持っているような気がしたからです。
もちろん、私は全ての家庭を見てきたわけではないので、一般論として書くような確信的なものではありませんが、ホストファミリーとの次のようなやり取りが非常に印象的でした。
私が、日本の文化を紹介するつもりで、
「日本では多くの家庭が、クリスマスを祝い(キリスト教)、年が明けたら神社で祈りをささげ(神道)、人が亡くなるとお寺さんにお願いして葬式をあげる(仏教)。」
と説明をしたところ、ホストマザーが、
「それはあまりにも信仰心がなさすぎる。私たちアメリカ人の多くは、心の底から(キリスト教的)神を信じているわよ。あなたもそうすべきよ。」
と言われたので、私は少しムッとして、
「それはおかしい。MOMは、神を見たことがないでしょう。それなのに、なぜその(キリスト教的)神を唯一絶対だと信じられるの。僕は、人間の力を超えたsomethingの存在を強く信じているけれども、それはゴッドでもなければ、アッラーとも言い切れないわけで、だからこそ、僕は自分の身近な宗教である仏教を中心にいいとこどりをしているし、日本人の多くは程度の差はあってもそう思ってるんだよ。」
と言って、お互い険悪な空気となった記憶があります。
そんな経験があったので、アメリカ映画に「神は死んだのか」というタイトルを見つけたときに、興味を持たずにはいられず、すぐに見てみることにしました。
この映画のあらすじはこんな感じです。
「アメリカの大学で実際に起きたさまざまな訴訟事件を基に、神を信じる学生が無神論者の教授と対決するさまを描いたドラマ。大学に入学したばかりのジョシュは哲学クラスの授業初日、ニーチェなどの無神論者を信奉するラディソン教授から神はいないという宣言書を提出するように言われる。単位が取れないと危惧した生徒たちは宣言書を提出するものの、納得できないジョシュだけは拒否。そんなジョシュに対して教授は、生徒たちの前で神の存在を証明して見せ、最後に、教授とジョシュのどちらが正しいかクラスの決をとり、その結果ジョシュが負けたら単位は与えないと迫る。ジョシュは恋人や家族の反対を押し切り、その証明の為に奔走する。」
結果的に、この映画の中では、ジョシュは満場一致で勝利するのですが、私はその結果に対して「微妙な気持ち」を持ちました。
そこで、何故私はその結果に対して「微妙な気持ち」を持ったのかを考えてみました。
私は「人間の力を超えたsomething」の存在を信じているという意味で、「有神論者」だと自分では思っています。
ですから、映画を見ているときの感覚としては、主人公を応援する気持ちで見ているのです。
しかし、(キリスト教的)神の存在が「満場一致」で認められる結果となった時に、私はホストマザーとのあのやり取りを思い出してしまったのです。
キリスト教徒に限らず、有神論者というのは、世界(宇宙)の始まりは創造主が意図をもって作ったという風に、科学の及ばない部分を「宗教」に預けてしまっていると言えると思います。
それに対して、映画の中でも描かれていましたが、無神論者というのは、世界(宇宙)の始まりを「ビッグバン」で説明しようとしますが、「ビッグバン」の前には何もなく、その後に物質等が突然現れることの説明に、科学は成功しているとは言えません。
つまり、ここに科学の限界、人間の限界というものがあって、無神論者は「現在探索中」という意思表示をもって、説明を棚上げしているとも言えると思います。
私には、どちらにしても説明の棚上げをせざるを得ない以上、人間の限界を認める必要性を真正面から受け止めるべきだと思うのです。
何が言いたいのかと言えば、一神教を信じる有神論者の姿勢は、説明を棚上げしているのにもかかわらず、他の考え方を認めないという点において、科学を信奉する無神論者の姿勢と同様だと思えるのです。
それは、「人間の力を超えたsomething」の存在をそのまま受け入れる勇気がないだけではないかと思います。
「キリスト教」でなければ駄目だ、「イスラム教」でなければ駄目だ、「科学的」でなければ駄目だ、これらの姿勢が現在の世界の不安定さを生み出しているのは事実です。
その意味で、私は日本人の「人間の力を超えたsomething」の存在を認めながら、あらゆる考え方のいいとこどりをする姿勢の価値を再認識すべきだと思うのです。