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経済学賞はノーベル賞じゃない?

2016年10月7日 CATEGORY - 代表ブログ

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皆さん、こんにちは。

今年もノーベル賞の季節がやってきました。今年に関しては、10月5日の時点で東京工業大学の大隅良典教授がノーベル医学・生理学賞を受賞されましたので、日本人としてはこれで三年連続の受賞となります。

しかも、「医学・生理学賞」、「物理学賞」、「化学賞」の自然科学系の3つの賞のいずれかを日本人が単独で受賞するのは、昭和24年の物理学賞を受賞した湯川秀樹氏、昭和62年の医学・生理学賞を受賞した利根川進氏以来、大隅教授が3人目で、29年ぶりのことのようです。

そんな中、ビジネスジャーナルウェブ版にて非常に興味深い記事があったので取り上げたいと思います。それは、「ノーベル経済学賞」はいわゆるノーベル賞ではないというものです。

私もこの記事を読むまでは全く知りませんでしたが、経済学賞以外のノーベル賞5部門が、ダイナマイトの発明者アルフレッド・ノーベルの遺言に基づいて創設され、1901年に始まったのに対し、ノーベル経済学賞は、その正式名称を「アルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン国立銀行賞」といい、1968年にスウェーデンの中央銀行であるスウェーデン国立銀行が設立300周年を記念してノーベル財団に働きかけ、創設されました。

そして、その賞金の拠出もノーベルの遺産を管理するノーベル財団ではなく、スウェーデン国立銀行によってなされているとのことです。

以上は経済学賞は純粋な意味でノーベル賞ではないという、形式的な理由ですが、本質的にもそうではないという議論もあるようなのです。

ノーベルは遺言書で、賞の対象者を「人類のために最も偉大な貢献をした人」としています。

であるならば、その賞を授与される理由となった功績は、時代を超えて普遍的に人類のためになるものでなければなりません。そうなると、時代や条件などとは無関係に成立する法則や現象の発見・発明などといった自然科学に関する賞や、これについては異論がありますが、人類の平和という普遍的な価値の確立といった平和賞が親和性が高いと言えます。

それに対して、「経済学」は、上記のような分野と比較すると、時代や条件によってその価値が変動もしくは意味を持たなくなることもしばしば起こり得るものです。

例えば、1980年に経済学賞を受賞したローレンス・クラインは世界各国の経済モデルを結びつけ、とてつもなく複雑なモデルを構築し、このモデルに基づいて長期予測をしてみせましたが、ことごとく外れました。

また、1997年に受賞したマイロン・ショールズとロバート・マートンが経営にかかわった投資ファンド、ロングターム・キャピタル・マネジメントは、同年発生したアジア通貨危機による市場の変化を読み誤り、破綻しました。

なぜこのようなことが起きるのでしょうか。記事の中では、次のような指摘がありました。

「自然科学が扱う物質と違い、生身の人間が動かす経済現象は実験室で実験することはできない。かといって、実験のために経済政策を行うわけにもいかない。せいぜい過去のデータをあちこちから集め、統計のテクニックを駆使してなんらかの法則らしきものを探るしかないだろう。」

つまり、これは経済学(経営学も含ぶ)という学問は、まさに生身の人間が動かす経済という、変動性があまりにも高い事象に対して、無理やりに自然科学の手法を使って解明しようとしているところに問題があるということの指摘に他なりません。

ある一定の条件や一部分の範囲の中でしか成立しない法則を導き出しているに過ぎないのに、それをあたかも普遍性のあるもののように認識してしまう危険性を捨てきれないところに、経済学の危うさがあります。

このことから、そもそも、経済学における「発見」は、普遍的に人類にとって偉大な貢献と断言できるわけではないとノーベル財団は判断したため、自ら経済学賞を自ら創設しなかったということでしょうか。

経済・経営という分野において普遍的な法則が見いだされるのであれば、世界に貧困や格差というものは根絶するはずなのに、いつまでたってもその兆しさえ見えないという現実は、少なからずその難しさを証明しているのかもしれません。

ただし、誤解のないように付け加えますが、学問の価値というのは、決して「普遍性」にのみあるものでもないとも思います。

むしろ、人間社会という様々な変数を抱え込んだ環境の中で、限定的な条件のもとで一定の法則を導き出す努力をする経済学(経営学を含めた)の存在価値もまた、別個に評価する必要性から、「アルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン国立銀行賞」が創設されたという意図も同時に、商学部経営学科出身の私としては理解するところです。