
先生はえらい
2025年8月27日 CATEGORY - 代表ブログ

皆さん、こんにちは。
自分自身の小学校、中学校、高校、大学時代を振り返って、その時々の時間のクオリティの良し悪しのかなり大きな割合が、その時の「先生」によるところが大きいように思います。
つまりそれは、「先生がえらい」かどうかで、そのクオリティが全く変わってくることであって、それは学生であった我々にはコントロールできない単なる「運」に身を任せるしかないものだということ。
でも、本当にそうなのか、実は学生の側にもコントロールの余地があるのではないか、そんなことについてこのブログでも何度かご紹介している哲学研究者 内田樹氏の「先生はえらい」という本を読みましたのでご紹介します。
本書を読んで、冒頭の私の「運に身を任せるしかないもの」という認識は全くもって頓珍漢なものだったということが判明しました。(笑)
著者の言う「先生」の概念にかなり大きな齟齬がありました。
冒頭の私の「先生」の定義は、「学校の教師であったり、塾の講師であったり、はたまたビジネスセミナーの担当講師であったり、知識や技能を伝授してくれる人」でした。
一方で本書における「先生」の定義は、「出会う以前であれば『偶然』と思えた出会いが出会った後になったら『運命的必然』としか思えなくなるような人」というものでした。
と言っても、かなり抽象的で「何を言っているのか分からない」と誰もが思われると思いますし、私自身そう思いましたが、実はこの「何を言っているのか分からない」と思わせてくれる人こそが、「えらい先生」ということになるようです。
著者は本書一冊を使って、それを理解させるために様々な方向から説明をしてくれています(またそれも結構回りくどく、かなり「何を言っているのか分からない」部分が多くあったのも事実です(笑))。
そのことを理解せさせるために実に回りくどいなと感じさせられたのは、コミュニケーションの逆説的本質ともいうべき次のような説明でした。
「コミュニケーションは『分かる』ということになった時点でそれ以上のコミュニケーション意欲を喪失させてしまう。つまり、コミュニケーションの目的はメッセージの正確な授受ではなく、メッセージのやり取り自体にある。おそらくコミュニケーションは常に誤解の余地があるように構造化されている。言葉というものは、うっかり聞き違えると結構深刻な影響が出るようにわざと分かりにくく出来上がっている。その上で、私たちがコミュニケーションを先へ進めることができるとはそこに『誤解の幅』と『訂正の道』が残されているから。」
ますます、「何を言っているのか分からない」ですよね?
でも、ここまで言われてくると、このことに対してもはや自分の頭の中で、その謎と格闘している自分自身を発見しました。少なくとも、簡単に分かってしまうような明瞭な言葉を提示されてしまえば、このような格闘はありえないことは事実です。
そして、最後に著者はこの「えらい先生」の実例を以下のように提示してくれました。
「先生の中には『私には決して到達できない境位がある』ということを実感するときにのみ弟子たちは震えるような敬意を感じます。その人はいったい何を知っているのか私には想像が及ばない『謎の先生』です。この『謎の先生』の教育効果について精密な記述を行ったのが夏目漱石の『こころ』です。漱石が『えらい先生』の条件として挙げているのは、①なんだかよくわからない人であることと➁ある種の満たされなさに取りつかれた人の二つです。この二つの経験こそが『大人』と『子ども』の決定的な分岐です。この経験とは、『コミュニケーションは常に誤解の余地を確保するように構造化されている』ということを経験することです。そして、人間の個性はその誤解によって生じる独創性そのものだということへの気づきです。つまり、『大人』になることは自分の馬鹿さ加減に気づき、それは己のアイデンティティを担保することになるのだという冷厳なる事実の前に粛然と襟を正しているうちに、青年客気でブイブイ言わせていたことに比べるとなんとなく腑抜けたような『おじさん』となるのです。『こころ』の『先生』も、この『自分の馬鹿さ加減を知ってしまったおじさん』の何とも言えない脱力感が、若者にはなんだか底知れる英知の余裕のように見えるのです。」
このように、「よい先生」という存在は、「謎」と「教育」の本質的な関係に立脚したものと言えます。
つまり、本当の学びとは習う側が自分がその師から何を学ぶのかを師事する以前には言うことができないところから始まります。
学ぶのは学ぶ者自身であり、教える者ではありません。それが何であるかを言うことができないことを知っている人がここにいると誤解したことによって学びは成立するということ。
そのような「運命的必然」を自ら引き起こさないと「えらい先生」には出会うことはできない。
だからこそ、それは全ては学ぶ側に責任があるということ。
非常に抽象的で「何を言っているのか分からない」お話ではありましたが、冒頭の私の「実は学生の側にもコントロールの余地があるのではないか」との感想はあたらずとも遠からず、そのことを理解できたことを著者に感謝します。









