
土地と財産で読み解く日本史
2026年1月11日 CATEGORY - 代表ブログ

皆さん、こんにちは。
前回、「不動産の教室」の記事にて、江戸時代から現在までの不動産の歴史を概観しましたが、これが意外にもかなり興味深く読みごたえがあり、江戸時代よりも前の歴史にも触れたいという欲求が湧き上がってきました。
そこでその欲求を満たしてくれるような書籍はないものかと探しましたら、大和政権の時代から不動産の歴史を元国税調査官の目線で概観できる「土地と財産で読み解く日本史」という一冊を見つけましたのでご紹介します。
それでは前回同様、今回は大化の改新以降、江戸時代までの不動産の歴史を要約をさせていただきます。
645年までは、日本は大和朝廷が地方の豪族を臣従させ、彼らが税金をいったん徴収して間接的に統治する「氏姓制度」方式をとり、朝鮮半島にも大きな影響力を持つ国として存在してきました。
しかし、中国大陸に唐王朝ができ、彼らが朝鮮半島に侵攻を始めると、日本は唐に対抗して朝鮮半島での影響力を維持するために軍事力を強化する必要性が生じました。そのため、直接的に税金を徴収する直接統治へ転換を図るべく、645年に最有力豪族であった蘇我氏を滅ぼして「大化の改新」を成功させたのが中大兄皇子と中臣鎌足です。
つまり、大化の改新とは「国土の国有化」を目的に行われたものと捉えることができます。こうして全国の豪族たちから没収した土地を農民に貸与して効率的に税を取る目的で作られた法律が「班田収授法」で、すなわちこれは「農地解放」を意味します。
ちなみに、唐王朝の朝鮮半島への進行は食い止めることができず、有名な「白村江の戦い」で唐・新羅連合軍に日本・百済連合軍は破れましたが、日本本土への進行はなく、その後大和朝廷は平和外交に徹し、ご存じ遣唐使の派遣などで唐と友好的な関係を築いていきます。
平安時代になると、班田収授法によって土地を分け与えられた人々の暮らしはそれなりに安定しましたが、逆に豪族による新田開発のモチベーションがなくなってしまったため、じわじわと朝廷は財源不足に悩まされるようになります。
その解決のため、723年「三世一身の法」、743年「墾田永年私財の法」を定めて、民が自ら新田開発するように仕向けたことで、大化の改新で確立した「土地の私有禁止」の原則がくずれることになります。
しかも、民にはその開墾面積の上限が課せられていたのに対して、貴族や寺社には課せられていたかったので、彼らによって開墾される「荘園」が爆発的に増加していくことになり、朝廷の力が相対的に弱ってしまいました(公地公民制は100年程度しかもちませんでした)。
このようにして増えていった貴族や寺社の「荘園」のガードマンとしての武力勢力が「武士」の始まりだということは有名な話です。
その勢力の最有力なものが平氏と源氏ですが、彼らの方針は根本的に異なっており、平氏が「朝廷の中央集権の維持」を目指し、源氏が「その破壊と封建制の確立」を目指してぶつかり合い、最終的に源氏が勝利し1185年に鎌倉幕府を開きます。(*ちなみに、「幕府」とはそもそも朝廷の一部署で、しかも騒乱などを取り締まる「臨時司令部」に過ぎないもので、その長たる征夷大将軍のはしりは東北討伐で有名な坂上田村麻呂)
そのような「幕府」は、鎌倉幕府も室町幕府も基本的に徴税が直轄管理している土地への課税や貿易による関税などに限定されていたのみならず、常に御家人たちに「褒賞」として土地を与えなければならないということで財政基盤が脆弱だったため、長期間にわたって体制の維持を行うことが困難でした。
そんな中で着々と勢力を伸ばしたのが、「墾田永年私財の法」によって荘園を拡大していった寺社です。
しかも、彼らは荘園から得られる富を蓄積し、それをもとに高利の貸金業を行ったり、縁日などを利用して市場を運営し出店地代などで商工業をも支配することでさらに富を増やしていきました。また、そうして得た財産を守るために僧兵を配備していきました。つまり、有力寺社の実態は仏教の名を借りた「大名」でした。
その最たるものが比叡山の延暦寺であり、織田信長はこれを敵視し、破壊するために「楽市楽座」をつくって縁日市場に対抗したり、遂には焼き討ちまで行うこととなりました。それによって信長以降、寺社は普通の宗教施設に戻ることになりました。
信長(とその後継者である秀吉)は鎌倉幕府の頼朝や室町幕府の尊氏のように天下統一しても朝廷から武家の長たる「征夷大将軍」をもらいませんでした。その代わりに、信長は太政大臣、秀吉は関白という朝廷の「最高級」の官位を手にしましたが、これはそれまでの財政基盤の弱い武家のシステムを修正し、寺社や豪族などの租税中間搾取を排除する「中央集権政府」をつくる意図があったのではないかと思われます。
武家として最後に天下を取ったのが徳川家康ですが、彼は信長・秀吉とは違った形で財政基盤を高めました。その手法は、「幕府」を作りつつも、土地を天領・藩領・寺社領に三つに分け、幕府直轄地である天領を多く持つことでした。
その上で、江戸時代の年貢は(一般的には五公五民などと言われていますが)現実の収穫量から計算すると実際には三公七民程度というかなり緩やかな税率として農民に豊かな農民生活を約束しつつ、幕府の財政の健全化と両立させたのです。また、農地の集積もそれほど生じておらず、江戸時代末期でも小作地は全のうちの30%程度しかありませんでした。
ただし、土地の所有権の概念は薄く、「村落の土地は農民全体の共有財産」という認識があり、原則として農地の売買は禁止されていました。(ただ30%は小作地であったという事実は、病気などによって自分の割り当ての内を質に入れざるを得ず、10年を経て質流れしてしまうものもあったからと考えられます。)
このように、江戸時代は260年の間、基本的には非常に「安定的」「公平的」な形で土地の「所有(共有)」がなされてきました。
そして、前回、「不動産の教室」の記事で見たように、明治維新による地租改正につながっていくのですが、地租改正によって土地所有者(厳密な所有権ではなく占有者)に対して地券を発行して「所有権」を認め、現金で納税させる仕組みに変わりましたが、実際には「所有権」が認められても、税率は江戸時代(特に天領において)の方がずっと低かったため、「江戸時代の農地制度に戻せ」と一揆が起こったほどだったようなので、江戸時代がいかにバランスの良い時代だったかが分かります。
本書の要約は以上となります。
前回同様、「不動産」を生業する身として非常に重要な知識を得られたと思っています。









