
江戸の不動産
2026年1月21日 CATEGORY - 代表ブログ

皆さん、こんにちは。
前回の「土地と財産で読み解く日本史」を読んで、江戸時代がいかにバランスの良い時代だったかにとても驚かされました。
そこで、江戸時代にもう少し特化して「不動産」について見てみたいと思い、その名も「江戸の不動産」という本を読みましたので、少々しつこいかとも思いましたが、ご紹介します。
基本的に、江戸(の城下)の土地は「武家地」と「寺社地」と「町人地」の三つに分けられて武家地は全体の7割を占めそこには武士が住み、寺社地は1.5割で寺や神社などの宗教施設が占有し、町人地は寺社地と同じ1.5割で町人や職人が住む土地とされていました。
そして、それらはすべて幕府から下賜されたもので、「所有権」という概念は存在せずにあくまでも「使用権」が与えられるという建前でした。
そして、そのいずれにも年貢は課されることはなく(その代わりに武家は役人ですから幕府に対しての仕事がありますし、町人や職人は「御用」と言って様々なサービスを提供する義務を負ってはいましたが、寺社に関して言えば前回の「土地と財産で読み解く日本史」で見たような信長以前の大名並みの特別扱いほどではないにしてもまだかなりの優遇がありました)、江戸(の城下)の外に存在する「農地」のみが年貢の対象となっていたようです。
このような状況にあった江戸時代の土地取引が本書のテーマになるわけですが、この建前だけを見れば、すべての人々に土地の所有権は与えられていないので、その売買は不可能ということになります。
にもかかわらず、実質的には現代人顔負けの非常に活発な「不動産ビジネス」が展開されていたのが江戸時代の本音でした。
その本音と建て前を使い分ける考え方は現代の中国のそれに非常に近いような気がします。
中国では共産党の一党独裁が続いているので、土地は全て国家のものであり、人民にはその「所有権」はなく「使用権」をお金で買うという形で不動産の活用がなされているのですが、まさにこれはどこからどう見ても「建前」であって、その「使用権」を金銭でやり取りしている以上、「本音」の経済の原理は共産主義ではなく資本主義に違いありません。
江戸時代の実質的な「不動産ビジネス」は、まさに中国と一緒で、そこに「価値」があるのであれば、それを利殖してお金に変えない手はないだろうという人間の根本的な欲に立脚するもので、幕府はそれを可能な限り黙認しますが、それでもどうしても外せないものに対する「規制」は存在していました。
その重要な規制を二つご紹介します。
一つは、木造建築だらけで一旦火災が発生したら手の付けられなかった江戸を守るための「火除け地」に対する規制と、もう一つは幕府の収入に直結する年貢が課せられる郊外の農地と江戸区域内の課せられない土地との「交換」に対する規制です。
まず一つ目ですが、「広小路」という場所の名前が現代にも残っているように、火事がそれ以上広がらないように大きな寺社の門前や橋などの重要建造物のたもとに「火除け地」が設けられましたが、これを完全な「空き地」として取っておくにはあまりにももったいなく、また幕府としても管理の負担が軽くなるメリットがあったため、その管理者になった者が植木や薬草の栽培場や移動できる小型の屋台のような店舗などの敷地として賃貸することを許可したものです。
二つ目ですが、江戸の人口が増えていくにつれて土地が足りなくなり、武士が幕府に対して土地を拝領したいと願い出てもそれがなかなかかなわず、待ちきれなくなった大名や幕臣たちは次第に郊外の農地を購入するようになるのですが、本来の所有者である農民が負っている年貢の負担を購入者が負わなければならないという規制です。それを嫌って、幕府に無税の拝領地と交換を願い出るのですが、幕府もみすみす収入を減らすようなことはしないため、圧倒的に割は悪くなるけれども他の拝領地をもっている武家と「等価交換」という形で入手するというものです。
このような形で武家は土地の売買を抜け道的に行っていたのですが、大商人や豪農も町人地においてのみではありますが、お金に物を言わせて土地(の使用権)を買いあさるということが一般化しました(幕府は本百姓が没落して年貢が確保できなくなることを防ぐため、田畑永代売買禁止令によって農地の売買を禁止していましたが、困窮した農民が質入れや隠し売買を行い、地主的支配が江戸時代を通して発生し、実質的な所有の移転はあったようです。)
江戸幕府は建前としては年貢(米)で税金を取り立てる政権でありましたが、もはや実態はかなり資本主義貨幣経済が幅を利かせており、それを有効に規制することはできなくなっていったことが良く分かりました。









